ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『東京自叙伝』と石原慎太郎、安倍晋三

同号掲載の様々な論考のなかで面白かったのは、石川義正「亡霊の言説」だった。彼は、石原慎太郎田中角栄の一人称で書いた(霊言!)小説『天才』をとりあげ、[著者は都知事でもあった自身の志向をそこに投影させているのだろう。むしろ著者は自身が田中角栄の転生であると暗にほのめかしてさえいるのかもしれない]と書く。
そのうえで石川は、奥泉光の長編小説『東京自叙伝』を引きあいに出す。同作は東京の地霊である「私」が、幕末期から太平洋戦争などを通過し、東日本大震災原発事故を経た現在まで、時代ごとに五人の男女に次々と憑依転生してきたことを語る内容である。地霊の性格は端的にいって無責任であり、作者の奥泉はそのように東京は、日本人は無責任にやってきたと指弾する。
そうしたストーリーを紹介した石川は、[『天才』の「俺」もまた『東京自叙伝』中の一篇として「田中角栄、アレは私です」と名のりでるのに相応しい人物である。ただし「俺」は反省しない]と皮肉る。角栄=「俺」=石原慎太郎は反省しないというわけだ。

東京自叙伝 (集英社文庫)

東京自叙伝 (集英社文庫)

『東京自叙伝』は昨年5月に文庫化された。原武史による巻末解説は、地霊=「私」が信奉する思想は「なるようにしかならぬ」だと指摘する。これを読んで思い出したのは、第一次安倍晋三内閣で久間章生防衛大臣が、広島、長崎の原爆投下について、「あれで戦争が終わったという整理の中で、しょうがないと思う」と失言したのが批判され、辞任したこと。原武史が『東京自叙伝』から抽出した「なるようにしかならない」は、久間発言の「しょうがない」と同質のものととらえていいだろう。
興味深いのは、「なるようにしかならない」を軸に解説を書き進めた原が、「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉に議論をつなげたことだ。それは、政治学者・丸山真男が日本の歴史意識の「古層」をなした思考の枠組みとして定式化した言葉である。原は、それが地霊の無責任をよく表現していると考えたのだ。

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

この言葉は、清水真人のこの新書にも登場する。同書は、かつてのコンセンサス型デモクラシーから多数決型デモクラシーへという日本政治の変化を追った内容である。著者の清水は、丸山真男が注目した「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉に関する次のような評言も紹介している。

苅部直『維新革命への道』はこれを「それぞれの時代における生成の結果を、動かしがたい現実として肯定し、無責任に追随してゆく意識につながる」と整理している。

『平成デモクラシー史』でこの部分の次の行には、[「つぎつぎになりゆくいきほひ」を地で行くような安倍の短期志向の政権運営。]と書きとめられている。清水は、「小刻み解散」を繰り返して支持をつないできた第二次安倍政権を状況への過剰適応とみており、それが「つぎつぎになりゆくいきほひ」だというのである。
石原慎太郎と同様に安倍晋三もまた、東京の無責任な地霊が憑依転生した一人だったのだろう。ただ、安倍の今後は、けっこう怪しくなってきたけれども……。

『すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録』の篠山紀信

すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~17年>

すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~17年>

建設専門誌の「日経コンストラクション」「日経アーキテクチュア」が追い続けてきた事故原発廃炉作業の記録をまとめた本。篠山紀信が撮影した福島第1原発と帰還困難区域(福島県双葉町)の写真が多く盛りこまれている。
篠山は、「激写」シリーズのほか、ヘア解禁と話題になった樋口可南子『Water Fruit』、宮沢りえの『Santa Fe』など、ヌード写真でたびたび世間の注目を集めてきた。だが、並行して歌舞伎役者や建築物など幅広い被写体を選んできた写真家でもあり、基本的にはなんでも撮影してしまいたい人なのだと思う。
今回の『すごい廃炉』の写真を見て連想したのは、営業時間終了後の東京ディズニーランド/シーでミッキーマウス&ミニーマウスなどキャラクターたちを撮影した『篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC』だった。観客(ディズニー風にいえばゲスト)たちが見ることのできない隠された姿を撮ったという意味で、斎藤環は『MAGIC』の写真を[「TDL」の「ヘアヌード」]とレトリカルに評していた。
http://d.hatena.ne.jp/ending/20090425
一方、『すごい廃炉』には、放射性物質による汚染をコントロールして食い止めようとする作業の現場が写されている。普通の人は見ることのできない場所だ。先の斎藤環の表現にならえば、『すごい廃炉』の写真は原発の「ヘアヌード」だし、そうとらえれば篠山の仕事としての一貫性が感じられる。しかもその「ヌード」写真は事故で“死体”と化した原発をなんとかエンバーミングしようと悪戦苦闘している光景を撮ったもの。遺体の保存だけでなく感染症防止も意図しているのがエンバーミングなのだから、この比喩は成り立つ。
秘所をとらえた生々しい写真。

篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC

篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC

宝塚花組『ポーの一族』

2月28日に東京宝塚劇場で観劇。
萩尾望都の同名コミックを原作としたバンパネラ=吸血鬼の一族の物語。脚本・演出の小池修一郎は、吸血鬼ドラキュラ、悪魔メフィストフェレス、妖精パックなど、過去にもたびたび超常的存在を主人公にした物語を手がけてきた。今回の演出では、過去の作品のなかでも特に、彼が日本版演出を担当した『エリザベート』が意識されていたように思う。
ポーの一族』では主人公のエドガーが、彼の分身的存在である影たちを率いて踊る場面がしばしば挿入される(他の主要人物に関しても自分の影たちとともに踊る場面がいくつかある)。これは、『エリザベート』においてトート=死神が、ある種の分身である黒天使たちと踊る演出を踏襲したものだろう。
トートの場合、はじめからこの世のものではないキャラクターとして登場し、ヒロインのエリザベートがトートとのキス=死に至るまでが語られた。一方、『ポーの一族』では、人間の少年だったエドガーが、意に反してバンパネラの一族に加えられてしまう苦悩が描かれる。『エリザベート』では語られなかった超常的存在になること/であることの苦悩を『ポーの一族』では描く。それが今回のテーマだと感じた。
エドガーは他人の首筋に口唇を寄せ、エナジーを吸いとることで相手をバンパネラにする。本作の場合、そのようにして同族に加える行為の艶めかしさが、恋愛要素を上回る。このため、エドガーがかつて恋したが成就しなかった男爵夫人に娘役トップの仙名彩世が配されたものの、あまり重い役回りではない。むしろ、エドガーが同族に加えたくなかったのにそうせざるをえなかった妹メリーベルの新人・華優希のほうが、大きな役になっていた。また、エドガーが妹に紹介し、後に同族に加える級友アランを男役二番手の柚香光が務めた。エドガーとメリーベルエドガーとアランという、それぞれ近親相姦、同性愛のニュアンスもある奇妙な三角関係の妖しさが、この舞台の魅力なのだといえる。
第一部で説明的なセリフが多すぎること、宝塚の舞台にしては歌の多い構成だが印象に残る強い楽曲が不足していることなど、不満はある。超常的な存在を扱った普通ではない話だから、説明したくなる気持ちはわかる。だが、ゴシックな内容なのだし、言葉ではなくもっと雰囲気で伝えて欲しかった。
その意味では、ポーの一族の背面と前面の銀橋に村人たちを立たせることによって、群衆がバンパネラたちを包囲し滅ぼそうとする場面を演出したのはよかった。装置や美術、人物配置といった絵面でドラマを伝える舞台ならではの魅力が感じられた。いくつかの場面転換などでは、小池演出ならではの空間感覚の冴えが感じられた。
とはいえ、なんだかんだいっても、エドガーを演じた明日海りおのこの世のものとは思えない美しさに尽きるのだ。『エリザベート』のトートもきれいだったが、今回もうっとりさせてもらった。あの姿さえ見られれば大満足だし、細かい粗など吹っ飛ぶ。舞台に立った時のシルエットが、ほかの演者とは全然違う。彼女がいたからこそ、成立した舞台化であった。
宝塚花組 ポーの一族 B2サイズポスター 明日海りおさん 柚香光さん 仙名彩世さん

エマニュエル・トッド『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書))

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書))

地球上どこでも人間は同じなのであれば、異なるふるまいをする彼らは人間ではないと平等主義に根差している差別。
多文化主義の立場から差異への権利を認め、それを移民管理の標準形にして、無意識のうちに差異に基づく不平等主義となる差別。
エマニュエル・トッドはフランスの政党に関し、前者の国民戦線を主観的に外国人恐怖症、後者の社会党を客観的に外国人恐怖症なのだと論じる。
彼は、移民の第一世代はともかく、その子世代の結婚では出身国の家族構造ではなく現地国の家族構造をとって同化していくとする。また、男女の地位は別にしてイスラム教の家族構造は意外に平等主義的だとプラスに評価する。ゆえに移民は脅威ではないというのだ。どこまで妥当な状況分析かは、わからないが……。


トッドは、フランスの脱キリスト教化、ゾンビ・カトリシズムを指摘しつつ、各地域の統計調査に基づいて議論を展開する。もともと国内にあった経済格差、宗教観や家族構造の差異をみつめ、イスラムユダヤとの摩擦を考察していく。
たまたま『猿の惑星』オリジナル・シリーズを再見したタイミングで読むことになった。フランスでは、イスラム教のムハンマドを下品に風刺した「シャルリ・エブド」への襲撃事件(2015年1月)で外国人恐怖症が高まったわけだ。一方、『猿の惑星』シリーズでは、神は自分に似せて猿を造ったとする猿の宗教が出てくるほか、核ミサイルを信仰して賛美歌を合唱する被爆子孫ミュータント集団など、キリスト教一神教の戯画が登場する。
また、猿−人間の差別を描くだけでなく、それぞれの種族内部にある差異や対立にも触れていた。猿は「猿は猿を殺さない」と自分たちの平等・平和を掲げつつ、人間を下層の存在と扱って狩る。一方、知性のある人間がいることを理解する猿もいるが、彼らもいわば「差異への権利」を認めつつ無意識に相手を奴隷扱いしてしまい、結果的に不平等な態度をとる。トッドが本書で語ったような構図が、前世紀に制作された『猿の惑星』シリーズに散見されるのだ。それだけ、起こりがちな差別構造をよくとらえていたわけである。
猿の惑星』第1作では人間のテイラーがチンパンジージーラにキスするが、ピエール・ブールの原作では両者は融和的になるものの猿側が人間のキスを拒否した。また、『猿の惑星』シリーズでは、猿社会はゴリラ、チンパンジー、オランウータンの3種族からなるものと描かれたが、そのなかに混血猿は見当たらなかったし、猿と人間の恋愛もありえなかった(喋れなくなり知能が猿並みに退化した未来人と現代からタイムスリップした人間の恋愛関係は描かれたが)。その意味では、トッドが移民問題における希望としてとらえている同化のテーマは、同シリーズにはなかった。
――てな感じで、『シャルリとは誰か?』を読んだことは、直前に鑑賞した『猿の惑星』シリーズを解釈するうえでも刺激になった。

『最後の猿の惑星』

猿が支配するようになった地球。青空学級のような形で人間が猿に文字を教える場面もあるが、基本的に人間は猿の召使状態となっている。チンパンジー、オランウータンはまだ人間と共存しようとしているが、ゴリラは人間など殺すべしと考えており、同じ猿のなかでも意識差がある。
チンパンジーで猿のリーダーであるシーザーと仲のよい人間が黒人と設定されていることだし、猿同士あるいは猿と人間の軋轢が人種差別のアナロジーであることは明らか。かつて奴隷だった猿が人間以上の地位を得て、それは正しいありかたになっているのか。かつて奴隷の立場だった黒人を一つの視点に用いて描いているわけだ。
一方、核戦争で破壊された都市の地下には、被爆してミュータント化した人類が住んでいる。彼らの仲には猿と争うことに消極的なものもいるが、リーダーをはじめ戦争支持派が多い。猿のほうでも平穏を願うシーザーと開戦に前のめりなゴリラのアルドー将軍では政治路線が違う。錯綜した対立構図のなかで戦争は起きる。
最後の場面には、猿の歴史上の英雄となったシーザーの石像が映る。シリーズ第1作『猿の惑星』(1968年)のラストで砂浜に埋もれた自由の女神像が登場したのは有名だが、それと対を成す幕切れだ。
このシリーズは、再度の核ミサイル爆発(『続・猿の惑星』1970年)によって滅んだ未来の猿の惑星から知性あるチンパンジー夫婦がタイムスリップして現代の地球に現れ(『新・猿の惑星』1971年)、その子猿=シーザーが人間と猿の地位逆転のきっかけを作る(『猿の惑星・征服』1972年)設定だった。同じ破滅の道をたどらない可能世界があることを暗示して『最後の猿の惑星』(1973年)は終る。ふり出しに戻るか戻らないか、歴史の分岐の可能性を残すことでシリーズを完結させており、独特な余韻がある。


猿社会内部での人間に対する共存派と開戦派の対立。戦争と平和をめぐる父猿と子猿の認識の世代差。人間を反面教師として「猿は猿を殺さない」を掟にしたというのに、猿が猿を殺すことによって本当の人間並みに到達する皮肉な展開。これらの要素を、2010年代に作られた新シリーズ(『猿の惑星:創世記』2011年、『猿の惑星:新世紀』2014年、『猿の惑星:聖戦記』2017年)も受け継いでいた。
当たり前だが、特撮の面では新シリーズのほうが大幅に進化した。だが、それは素直な時系列で物語られており、タイムスリップというトリッキーな展開でシリーズを組み立てたオリジナル・シリーズのような複雑な余韻はない。この点は、オリジナル・シリーズに軍配を上げたい。

映画『グレイテスト・ショーマン』

このミュージカル映画では身体、人種、階級をめぐる差別がモチーフになっている。“The Greatest Show”で壁が否定され(「And the walls can’t stop us」)、”This Is Me”で人それぞれの自己と多様性が言祝がれるあたり、ドナルド・トランプ的な思考に抗する態度がうかがえる。
また、『ラ・ラ・ランド』にみられた芸術における正統・伝統と商業性の衝突というテーマが、この映画にもみられる。
とはいえ、それらの問題は重く追及されているわけではない。差別問題がらみの作品としては、『ズートピア』の方がシリアスだろう。また、三角関係の描きかたもドロドロしたものではないし、人間ドラマとしてさほど深みはない。ストーリー展開自体は意外に淡泊だ。
しかし、歌、踊り、見世物性でグイグイ押していくエンタテインメントとしては面白い。十分楽しんだ。

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)