ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

映画『わたしを離さないで』

原作者カズオ・イシグロが製作総指揮の1人に名を連ねているためか、わりと小説版に沿った映画化(2010年版)。ただ、タイトルにもなっている「わたしを離さないで」という曲をキャシーが聴く場面の位置づけが違う。
原作ではそのテープは一度失われ、後にトミーが買い直してくれるのだが、映画では最初からトミーからもらったとされる。また、曲にあわせてキャシーが体を揺らしているところを覗き見するのは原作ではマダムなのに対し、映画ではルース。結婚も家族を作ることもできない運命にあるキャシーが、歌詞にある「ベイビー」について恋人ではなく赤ん坊だと勘違いしていたことも映画では触れられていない。原作よりもSF的設定が後景に退き、キャシー、ルース、トミーの三角関係が強調され、映画全体としても恋愛の比重が大きい仕上がりになっている。
ヘールシャムの子どもたちに真実の一端をもらすルーシー先生役は、サリー・ホーキンス。社会によって勝手に存在のありようを規定され疎外された立場へのシンパシーという点では、本作の役回りは、半魚人と恋に落ちた『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年)のヒロイン役に通じる面があったかも。

noteへの過去原稿アップ

noteにアップしてきた過去原稿がけっこうたまってきたから、これまでの分の一覧を作った。

  • 最近自分が書いたもの
    • 今村昌弘インタビュー、コラム「夜明けの紅い音楽箱」(とりあげたのは村上暢『ホテル・カリフォルニアの殺人』 → 「ジャーロ」NO.63
    • 伊兼源太郎『地検のS』のレビュー → 「ハヤカワミステリマガジン」5月号

ジャーロ No. 63ミステリマガジン 2018年 05 月号 [雑誌]

第71回 日本推理作家協会賞 候補作決定

【長編および連作短編集部門】
いくさの底     古処誠二(KADOKAWA)
インフルエンス   近藤史恵文藝春秋
Ank : a mirroring ape 佐藤究(講談社
かがみの狐城    辻村深月ポプラ社
冬雷        遠田潤子(東京創元社


【短編部門】
ただ、運が悪かっただけ 芦沢央(オール讀物2017年11月号掲載)
火事と標本       櫻田智也(東京創元社『サーチライトと誘蛾灯』収録)
理由(わけ)      柴田よしき(文藝春秋『アンソロジー 隠す』収録)
偽りの春        降田天(野性時代2017年8月号掲載)
階段室の女王      増田忠則(双葉社『三つの悪夢と階段室の女王』収録)


【評論・研究部門】
ミステリ読者のための連城三紀彦全作品ガイド 浅木原忍(論創社
アガサ・クリスティー大英帝国 名作ミステリと「観光」の時代 東秀紀(筑摩書房
本格ミステリ戯作三昧 贋作と評論で描く本格ミステリ十五の魅力 飯城勇三(南雲堂)
乱歩と正史 人はなぜ死の夢を見るのか 内田隆三講談社
昭和の翻訳出版事件簿 宮田昇創元社


私は、評論・研究部門の予選委員の一人でした。

『東京自叙伝』と石原慎太郎、安倍晋三

同号掲載の様々な論考のなかで面白かったのは、石川義正「亡霊の言説」だった。彼は、石原慎太郎田中角栄の一人称で書いた(霊言!)小説『天才』をとりあげ、[著者は都知事でもあった自身の志向をそこに投影させているのだろう。むしろ著者は自身が田中角栄の転生であると暗にほのめかしてさえいるのかもしれない]と書く。
そのうえで石川は、奥泉光の長編小説『東京自叙伝』を引きあいに出す。同作は東京の地霊である「私」が、幕末期から太平洋戦争などを通過し、東日本大震災原発事故を経た現在まで、時代ごとに五人の男女に次々と憑依転生してきたことを語る内容である。地霊の性格は端的にいって無責任であり、作者の奥泉はそのように東京は、日本人は無責任にやってきたと指弾する。
そうしたストーリーを紹介した石川は、[『天才』の「俺」もまた『東京自叙伝』中の一篇として「田中角栄、アレは私です」と名のりでるのに相応しい人物である。ただし「俺」は反省しない]と皮肉る。角栄=「俺」=石原慎太郎は反省しないというわけだ。

東京自叙伝 (集英社文庫)

東京自叙伝 (集英社文庫)

『東京自叙伝』は昨年5月に文庫化された。原武史による巻末解説は、地霊=「私」が信奉する思想は「なるようにしかならぬ」だと指摘する。これを読んで思い出したのは、第一次安倍晋三内閣で久間章生防衛大臣が、広島、長崎の原爆投下について、「あれで戦争が終わったという整理の中で、しょうがないと思う」と失言したのが批判され、辞任したこと。原武史が『東京自叙伝』から抽出した「なるようにしかならない」は、久間発言の「しょうがない」と同質のものととらえていいだろう。
興味深いのは、「なるようにしかならない」を軸に解説を書き進めた原が、「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉に議論をつなげたことだ。それは、政治学者・丸山真男が日本の歴史意識の「古層」をなした思考の枠組みとして定式化した言葉である。原は、それが地霊の無責任をよく表現していると考えたのだ。

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

この言葉は、清水真人のこの新書にも登場する。同書は、かつてのコンセンサス型デモクラシーから多数決型デモクラシーへという日本政治の変化を追った内容である。著者の清水は、丸山真男が注目した「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉に関する次のような評言も紹介している。

苅部直『維新革命への道』はこれを「それぞれの時代における生成の結果を、動かしがたい現実として肯定し、無責任に追随してゆく意識につながる」と整理している。

『平成デモクラシー史』でこの部分の次の行には、[「つぎつぎになりゆくいきほひ」を地で行くような安倍の短期志向の政権運営。]と書きとめられている。清水は、「小刻み解散」を繰り返して支持をつないできた第二次安倍政権を状況への過剰適応とみており、それが「つぎつぎになりゆくいきほひ」だというのである。
石原慎太郎と同様に安倍晋三もまた、東京の無責任な地霊が憑依転生した一人だったのだろう。ただ、安倍の今後は、けっこう怪しくなってきたけれども……。

『すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録』の篠山紀信

すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~17年>

すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~17年>

建設専門誌の「日経コンストラクション」「日経アーキテクチュア」が追い続けてきた事故原発廃炉作業の記録をまとめた本。篠山紀信が撮影した福島第1原発と帰還困難区域(福島県双葉町)の写真が多く盛りこまれている。
篠山は、「激写」シリーズのほか、ヘア解禁と話題になった樋口可南子『Water Fruit』、宮沢りえの『Santa Fe』など、ヌード写真でたびたび世間の注目を集めてきた。だが、並行して歌舞伎役者や建築物など幅広い被写体を選んできた写真家でもあり、基本的にはなんでも撮影してしまいたい人なのだと思う。
今回の『すごい廃炉』の写真を見て連想したのは、営業時間終了後の東京ディズニーランド/シーでミッキーマウス&ミニーマウスなどキャラクターたちを撮影した『篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC』だった。観客(ディズニー風にいえばゲスト)たちが見ることのできない隠された姿を撮ったという意味で、斎藤環は『MAGIC』の写真を[「TDL」の「ヘアヌード」]とレトリカルに評していた。
http://d.hatena.ne.jp/ending/20090425
一方、『すごい廃炉』には、放射性物質による汚染をコントロールして食い止めようとする作業の現場が写されている。普通の人は見ることのできない場所だ。先の斎藤環の表現にならえば、『すごい廃炉』の写真は原発の「ヘアヌード」だし、そうとらえれば篠山の仕事としての一貫性が感じられる。しかもその「ヌード」写真は事故で“死体”と化した原発をなんとかエンバーミングしようと悪戦苦闘している光景を撮ったもの。遺体の保存だけでなく感染症防止も意図しているのがエンバーミングなのだから、この比喩は成り立つ。
秘所をとらえた生々しい写真。

篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC

篠山紀信 at 東京ディズニーリゾート MAGIC