ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

「本人」、ひろゆき / 平野啓一郎『決壊』

本人 vol.09
「本人」のリニューアル第1号の巻末には、「編集部一同」名義で「第二期『本人』始動にあたって」と題した所信表明が掲載されていた(同誌のスーパーバイザーは松尾スズキ、編集長は北尾修一)。そこには、こう記されている。

そして、同時に、今回のリニューアルは、「“本人”というコンセプトの雑誌を作る」という当初の松尾スズキさんのアイディア、その発想の凄みを再証明するための挑戦でもありました。(中略)なぜならば日本語の「本人」という言葉は奥行きが深くて、“〜自身”という意味だけでなく“当事者”という意味もあるのだから……。私たちは、第二期にあたり、「本人」の後者の意味に立ち戻るところからスタートしました。

そうして今回、表紙、巻頭に選ばれたのがひろゆきだったのが興味深い。誌面に掲載された彼のプロフィールのなかには、こうある。

大学在学中にインターネット掲示板2ちゃんねる」を開設。同掲示板の書き込み内容をめぐり、常にいくつかの訴訟を抱えているも、法廷徹底無視の姿勢を貫く。

「名無しさん」ばかりでなかなか“本人”が出てこない匿名掲示板に関し、かろうじて“本人”性、“当事者”性を担保する名前として存在したのが、ひろゆきこと西村博之だった。しかし、彼は「法廷徹底無視の姿勢」にあらわれている通り、世間の良識が期待するような意味での“当事者”性は金輪際引き受けない。
「お前が張本人だろ!」「そーですかー?」――みたいな。
リニューアル後の「本人」のキャッチフレーズは、「大至急本人を!」となっているけれど、そう呼びかけた時に一般的に想定される意味での“本人”性からズレたポジションをとるのが彼だ。その態度は、『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』以後の近況報告といえる今回の発言でも変わらない。
雑誌「本人」はこれまで、演劇人、芸人、ミュージシャンなど、そりゃ“本人”がステージに出てこなけりゃ話が始まらないよな、というタイプの人々を中心に誌面を作ってきた。つまり、“本人”性、“当事者”性が自明である人ばかりだったというか。そのことが、一種の予定調和、“お約束”感になっていた気もする。
それに対し、ひろゆきは“本人”性、“当事者”性が不鮮明であるから、雑誌のコンセプトとの齟齬、摩擦がかえって面白い。――同誌への彼の登場には、そんな感想を持った。
だから、「本人」には、今後も“本人”ぽくない人に積極的にアプローチしてもらいたい。“本人”不在の今だから、あえて“本人”求む――みたいなスタンスで。


そういえば、ネット時代の犯罪を描きました的な大作だった平野啓一郎『決壊』では、容疑者に投げかけられた「正体を見せろ、正体を!」の言葉が空転する様子こそが、テーマになっていた。「大至急本人を!」は、その「正体を見せろ、正体を!」のフレーズに近い響きがあるし、ひろゆきの「柳に風」、“正体”不在的な風情に『決壊』を思い出した。
2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? (扶桑社新書)決壊 上巻決壊 下巻