ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

2013年3部作と東日本大震災

エンタメ小説進化論 “今”が読める作品案内』の半分程度は、「メフィスト」でやっていた「むちゃぶり御免! 大胆エンタメ進化論」を加筆修正して収録したものだ。その連載中に東日本大震災が起きたのだった。
当初は「むちゃぶり」というトリッキーなルール設定による遊戯的な評論としてスタートしたのだが、震災以後はシリアスな感覚も混じらざるをえなくなった。2年前の震災翌日に、液状化して街並みが歪んでしまった浦安から、倒れることなく真っ直ぐ立っていた東京スカイツリーを眺めた時の心持ちを書いた部分など、直接、それが表れている。


ディズニーの隣の風景: オンステージ化する日本』は、ディズニー/浦安を一つの象徴的なケースとして、日本における地域、場所のイメージの変容を考察するのがテーマだったから、震災の影響はより濃い。浦安の液状化についてより詳細に語っているし、日本の土地が不動産と呼べるほど不動ではない現実にも目を向けている。
また、震災後の風評被害が、日頃の“風評商売”の延長線上にある必然的な出来事だった点も述べた。
円堂都司昭の2013年3部作では、この本がもっともストレートに“震災後”という色彩が強い。


その点、微妙なのは、『ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ』だろう。斉藤和義の反原発ソングに対するいきものがかり水野良樹の反発など、震災関連の記述もないではない。
しかし、(60年代のロックやフォークのような)音楽に自己表現や社会批判を求める傾向が、時代を追って退潮し、より「遊び」的なものへと重点移動した経過を観察した評論である。したがって、社会問題のために(震災のために、反原発のために)音楽はなにができるか――という類のテーマ設定に、今、大々的なリアリティを認める内容ではない。
とはいえ、現在の音楽がまったく非「社会」的だといいたいのではない。(歌手たちも口にしがちな)「絆」という社会的なスローガンにうさんくささがあるにせよ、それこそ「ソーシャル」な情報インフラによる「つながり」によって、音楽が受容されているという現状がある。
良かれ悪しかれ、震災後の共同性を考えようとする時、「ソーシャル」な「つながり」は避けて通れない。そのことは意識しつつ、書いた。


いずれも、2年前の3・11の前月に『ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー (ソフトバンク新書)』を出版した後に単行本化を企画し、まとめたのである。だから、『エンタメ小説進化論』、『ディズニーの隣の風景』、『ソーシャル化する音楽』は、程度はともかく、私にとって“震災後”3部作という要素を持っているのは確か。

ドキュメント 東日本大震災 浦安のまち 液状化の記録

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