ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

内田隆三『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?』

アガサ・クリスティーアクロイド殺し』に関する長編評論。同書では、語り手の語り落としが考察すべきポイントの一つになっているが、同書自体に“語り落とし”が感じられてならない。
第一章には、「『アクロイド殺し』がはらむ、上記のような戒律や形式化の試みとの〈葛藤〉」というくだりがあり、次のようにも記されているからだ。

(※ネタバレにつき前略〜)ノックスやヴァン・ダインが危機を感じ取ったように、探偵小説の形式から本質的に逸脱しているからである。この作品は探偵小説の内部で探偵小説を脱構築する不安な契機をはらむことによって成立しており、探偵小説一般を代表するどころか、むしろ「反−探偵小説」の相貌をもっていたのである。

新本格ミステリ以降のミステリ評論に詳しい人であれば、いわゆる後期クイーン的問題を思い出すところだろう。形式化の徹底で脱構築に至るという柄谷行人「形式化の諸問題」(『隠喩としての建築』)のテーマや方法論を応用して、法月綸太郎が一連のミステリ論(特にエラリー・クイーン論)を書いた。それが後期クイーン的問題と名づけられ、多くのミステリ論者(笠井潔小森健太朗、諸岡卓真、飯城勇三巽昌章など)がかかわって議論が広がっていったのだった。
しかし、本書には、ミステリ分野の評論家の名前は、法月を含め一切登場しない。この点は、内田隆三のこの系統の前著『探偵小説の社会学』が、笠井潔の大戦間探偵小説論(いわゆる大量死理論)に近しい内容を含んでいながら、笠井への言及がなかったのと同様である。
そのうえ、『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?』には、柄谷『隠喩としての建築』も参考文献としてあげられていない。なのに、作品の形式としての徹底性、自己言及性をめぐる論評という意味で「形式化の諸問題」に関連する内容と受けとれる柄谷の芥川龍之介「藪の中」批判については、内田は触れているのだ。
ゲーデルを応用した柄谷「形式化の諸問題」を、ソーカル事件以後の視点から忌避したのかもしれないが、忌避に関する注釈があるわけでもない。


ピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』を批判しつつ、『アクロイド殺し』の事件を精査し直す部分は面白い。また、ミステリ小説との関連でロブ=グリエカフカなどの文学を論じるているなかでは、特にソポクレスのギリシャ悲劇『オイディプス王』に別の真相を見出す過程に読みごたえがある。本格ミステリ大賞評論・研究部門の候補になっていい内容だと思うし、それだけに“語り落とし”が釈然としないのが残念。


(ちなみに『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?』は、エドマンド・ウィルソンのエッセー「誰がロジャー・アクロイドを殺そうとかまうものか」について語るところから始まるが、法月綸太郎には「誰が浜村龍造を殺そうとかまうものか」と題した中上健次論があった(『謎解きが終ったら』所収)。この評論は、「形式化の諸問題」以後の柄谷の文芸評論であり中上論である「物語のエイズ」を踏まえた内容だったといえる。)