ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

鈴木謙介『ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで』

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

ウェブ社会のゆくえ 〈多孔化〉した現実のなかで (NHKブックス)

現実の風景が情報やコンテンツによって重ね塗りされる現状、聖地巡礼ゆるキャラ、セキュリティ、震災後の不動産評価、震災メモリアルなど、私の『ディズニーの隣の風景: オンステージ化する日本』で触れたことがらも議論の対象になっていたので興味深く読んだ(同書には『ディズニーの隣の風景』に言及した箇所もある)。
あとがきにもあるが、私はゲラの段階で読ませてもらった一人。その後、加筆修正された本を読んで思ったのは、最終的に「多孔化」という用語を選んだのは正解だったということ。現実の上書き状態に関しては、宇野常寛が「拡張現実」の語で論じ(『リトル・ピープルの時代』)、私は『ディズニーの隣の風景』で平野啓一郎が『ドーン (講談社文庫)』で使った「添加現実」の語を適用したが、鈴木の「多孔化」のほうが今の皮膚感覚に即しているのではないかと感じる。
「現実の多孔化」とは、「現実空間に情報の出入りする穴がいくつも開いている状態のこと」と説明されている。情報の上書きのぐあいが一様ではなく斑である現状をよく表現した語である。
場所の「再魔術化」(『カーニヴァル化する社会』2005年)、共同体の記憶を継承する「メモリアル」(『ウェブ社会の思想 “遍在する私”をどう生きるか』2007年)など、鈴木のこれまでの著書にもみられたテーマが、本書では東日本大震災を経た視点から論じ直されている。その意味では、タイトルから想像されるような『ウェブ社会の思想』の続編というより、全体的にヴァージョン・アップした本という印象。
鈴木の一連のウェブ社会論のなかでは、ネットを介した一時的なお祭り騒ぎを対象にした「カーニヴァル化」論が知られているだろう。それに対し本書では、「抽象化された死者を引き受ける空間」、「儀礼が可能にする記憶の継承」といった見出しやメモリアル論など、本来的な意味での祭礼(的なものごと)が現代において可能かが終盤の論点になっている。本書では「カーニヴァル化」の用語は登場しないけれど、一時的な「カーニヴァル化」とは反対の、長い期間に及ぶ祭礼の可能性を探ることが執筆モチーフになっているという風に、私は読んだ。


一方、『ウェブ社会のゆくえ』では、その人について監視されたデータがその人自身とイコールだとされる社会、自己情報コントロール権などについても考察されている。このへんの議論は、鈴木の以前の著書にも出てきた。なので、私が『「謎」の解像度 ウェブ時代の本格ミステリ』(2008年)を執筆する時、『ウェブ社会の思想』の議論や、(『ウェブ社会のゆくえ』でも参照されている)阪本俊生のプライバシー論、加えて荻上チキ『ウェブ炎上』などに刺激を受け、参考にしたことを思い出した。本格ミステリは、特定の人物に関する情報をいかに把握するかという物語だから、一連のウェブ社会論は無縁ではないと私は考えている。その意味でも、鈴木の新著からは新たな刺激を受けた。

ミステリマガジン 2013年 12月号 [雑誌]