ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

清家竜介・桐原永淑『ももクロ論 水着と棘のコントラディクション』

ももクロ論 水着と棘のコントラディクション

ももクロ論 水着と棘のコントラディクション

たくさんの思想・評論書を参照しつつ書かれたももいろクローバーZ論。『ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ』からも引用されている。
清家竜介「ももクロAKB48を超えるか? アイドル消費における鎮魂とカーニヴァル」が社会状況との関係、桐原永淑「まばゆい笑いの発作 アイドルとロックのパフォーマンス論」がロックとの比較で論じるという二部構成だが、ミハイル・バフチンカーニヴァル論など二人がともに依拠しているものもあり、ゆるやかに関連した内容になっている。
AKB48の政治的公共性を語る宇野常寛らに対し、清家がそれは滅私奉公的な和辻哲郎的公共性の蘇りだと評する。また、桐原が、濱野智史前田敦子はキリストを超えた』よりも「AKBは資本主義の女王である」というほうがよいと書く。そのように最近のアイドル論を批判した部分もある。
濱野が『前田敦子はキリストを超えた』と主張する根拠にした「私のことは嫌いでも、AKBを嫌いにならないで下さい」発言の利他性に、高城れにの「ももクロを嫌いになっても、私を嫌いにならないで下さい」というパロディ発言を対置し、王と乞食がひっくり返り、現世の秩序が反転するカーニヴァル的活性化をみるあたりは面白い(清家パート)。
ただ、哲学の古典からゼロ年代以降の批評まで広く参照しているなかで、二人は特に80年代ニューアカデミズム的な概念を重用している。まず、バフチンの重視のしかたがそうだし、ディオニソス的なものの魔力(ニーチェ)、呪われた部分(バタイユ)、生成変化(ドゥルーズ)など、当時のカルチャー論で使われた概念が頻出する。
したがって、野々村明宏・中森明夫田口賢司のアイドル論鼎談『週刊本 卒業 KYON2に向かって』に象徴されるニューアカ流行時の冗談半分本気半分のサブカル評論を、今の時代に生真面目に反復している印象はある。


東日本大震災以後のももクロの活動に鎮魂をみつつ、彼女らを巫女に見立てるアイドル−宗教論の一種である。本書では、スイングジャズの時代にテオドール・アドルノが「キリストの受難史かなんぞのように、もったいらしくジャズの歴史を読み耽る耳達者」と批判したことを指摘しつつ、ブライアン・ジョーンズカート・コバーンの殉教者扱い、ジョン・レノンのキリスト発言に言及し、音楽−宗教論が繰り返されてきたことに触れている(桐原パート)。
一般的には拝金主義のあらわれと受けとられた三波春夫の「お客さまは神様です」の言葉についても語られている(清家パート)。三波本人がそれは誤解だとしてオフィシャルサイトに掲げた文章が本書には引用されており、それが興味深いので孫引きしておく。

歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って、心をまっさらにしなければ完璧な芸をお見せすることはできないのです。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです。

(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20131008