苦楽堂編『次の本へ』

次の本へ

次の本へ

ある本を読んだ次にどんな本を読むのか。84人の寄稿者が「次の本との出合い方」を語ったエッセイ集である。私は、坪内祐三靖国』の次に赤坂真理『東京プリズン』を読んだことを書いている(「『靖国』から『東京プリズン』へ 気になった本を読んでいたから「通じるところ」に気づいた」)。そのエッセイには書かなかったことをここに雑記しておく。


私の「次の本との出合い方」は、遡れば小学生時代に基本パターンができあがっていた。
NHKの人形劇『新八犬伝』が好きだった私は、原作を探して読んだ。といっても、もちろん、江戸時代に書かれた曲亭馬琴の難しい原文が読めなかったし、子ども向けにやさしく書き直された本を手にとったのだ。物語に夢中になったが、同じ本を繰り返し読みはしなかった。名作、古典の場合、同じ作品を数社がそれぞれ出版していることに気づいた。それらを片っ端から読んでいった。
児童書では、たいていは原題の『南総里見八犬伝』ではなく、『里見八犬伝』、『八犬伝』の略称で刊行されていた。原作があまりにも長大だから、エピソードや登場人物の取捨選択がされていた。そのアレンジが、各社の本ごとに違う。「だ」「である」か「です」「ます」かという語尾の違い、複雑な人間関係の簡素化(親子それぞれのエピソードを一人の人間の話に変えてしまうとか)、本がどの場面で始まりどの場面で終わるか――などなど。同じ物語なのに、描写の密度、スピード感などが本によって異なるという、ヴァージョン違いの面白さを知った。
また、小学生向けから中学生向け、高校生向け、一般向け読物へと、徐々に読むものをグレードアップする過程で結果的に漢字を覚えていった。ルビつきからルビなしへの移行がトレーニングになったらしい。
そして、山田風太郎忍法八犬伝』という大人向けのエロチックな本に行き当たり、パロディの楽しさも教えられた。私が後に二次創作、n次創作の現象に興味を持つようになったのは、このあたりの読書に根っこがあるんだと思う。
一方、子ども向けの古典シリーズでは、巻末に国文学者などが解説を書いていることがあった。子ども向けの解説というよりは、本を買い与える親に向けた解説だったのだろう。子どもの私は、本は最初から最後まで読むべきだと思いこんでいたから、解説も一所懸命読んだ。そこには『八犬伝』を書いた馬琴には『椿説弓張月』という作品もあって、とか、『八犬伝』は物語の大枠を中国の『水滸伝』から借りていて、などと書かれていた。そのように言及されている本を手にとって読めば、『弓張月』の主人公・源為朝が出てくる『保元物語』という軍記物語があって、とか、『水滸伝』と並ぶ中国の古典に『三国志演義』が、などと解説されている。そういうものを芋づる式に読んでいった。多くの作品間の影響関係に関心を持ったのだ。私に文芸評論家的な感覚が芽生えたのは、その頃だったのだろう。
次の本へ、次の本へ、と手を伸ばし、たぐり寄せる楽しみは、今も続いている。芋づるに終りはみえない。