ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

舞城原作・戯曲版『バット男』

本屋の文庫コーナー平積みで、「ん、草間彌生?」と思う表紙を見つけた。黄色の点々を浮かべた緑色が下部を縁どっている。そして白の斑点を散らした赤色が紙面の大部分を覆う。完全に草間の「水玉強迫」パターンである。
でも、違った。舞城王太郎を特集した「IN☆POCKET」最新号ISBN:4060605247。よく見ると、表紙の下にある緑のシルエットは家なみを表し、四角く黄色い点々は窓からもれる明かりを意味していた。また、画面全体に散る白は雪だった。空を赤色、家なみを緑色にすることでクリスマスっぽくしました――というデザインなのだった。それを勘違いしてしまうんだから、「水玉強迫」観念の感染力は強い。
デビュー作『煙か土か食い物』の文庫化ISBN:406274936X、表題作が三島賞候補だった『熊の場所』のノベルス化ISBN:4061824074号である。その「IN☆POCKET」をざっと読んだあと、倉持裕の戯曲『バット男』にまで目を通してみた。『熊の場所』収録の短編「バット男」を脚色したもので、未見だが10月に実際に上演されたという(巻末の出演者リストでは、持田真樹石川浩司の名が目を引いた)。
バット男 (舞城王太郎 原作)
バットを振り回して他人を威嚇するくせに、いつもそのバットで自分が叩かれてしまうバット男。彼をキー・イメージに、いつも誰かがいじめられる、たとえバット男が消えても必ずべつのバット男が現れるという、そんな「システム」への感情を軸に、高校生3人の恋愛友情劇を綴ったもの。――舞城の原作短編は、とりあえずそのように説明できる。語り手の少年=林博之は、叩かれてばかりのバット男がいつか叩き返すことを夢想している。そこでは、バットは「システム」への隷属(叩かれること)と「システム」への反抗(叩き返すこと)の両義的な象徴になっているのだ。
舞城の一人称文体のなかでは、口汚さによる“文圧”は比較的薄いほうで、読みやすい部類。わりと冷静な文体で「システム」についての観察を寓話的かつコンパクトにまとめたあたり、村上春樹との意外なほどの共通性が見てとれる。
とはいえ、やはり舞城作品だから、一人称の饒舌ぶりが小説の一番の魅力になっている。以前、ルー・リードが《NEW YORK》ASIN:B00005HGL3〈エンドレス・サイクル〉で親世代の暴力が子世代へ、その次の世代へと受け継がれ繰り返される「システム」的悪夢を歌っていたのを思い出す(アルバムは名作。あの時の来日公演は、今でも僕にとってロック・ライヴのベスト1)。〈エンドレス・サイクル〉も、メロディ感は希薄で、通常の曲みたいな起伏はなかったけれど、ルーの声質と語り口調によって「システム」への“観察”を“歌”に昇華していた。舞城の場合も結局、作品を“小説”にするのは語り口である。
その語り口を禁じられる芝居化にあたって、倉持は上手な細工をしている。原作をわりと忠実になぞった筋に、会社勤めをする博之がやはりそこでいじめられ型の人間と接する別筋を加え、バット男と博之による妄想的場面を要所に挿入する構成にしたのだ。そうすることで、原作の地の文にあったニュアンスを外部に実体化させ、芝居向けに仕立て直している。これにより、混沌とした舞城的発想はわかりやすく整理されている。実演を見逃したのが残念。再演されるなら、ぜひ見たい。
この本で興味深いのは、あとがきとは別に「上演の手引き」が書かれていること。それも、一般的な芝居化の手引きではなく、上演時間が限られ脚本の短縮が必要となる高校演劇でどう演出したらよいかを、アドバイスしているのだ。倉持は、自分がアレンジして加えた部分(会社の場面、バット男と博之の場面)を削ることをすすめている。言い換えると、高校生ならば、原作をなぞった演出で十分に話が通じるはずだ、と倉持は考えていることにもなる。だから、この「上演の手引き」を逆方向から読むなら、舞城語の通じない“大人”でも見られるよう脚色するために倉持がどうしたのか、わかる仕組みになっているわけだ。
まあ、舞城語をストレートに呑み込める若者にとっては、この芝居のアレンジは“解説臭い”と感じられるかもしれないが、“大人”には一冊の舞城批評として興味深く読める本になっていると思う。

K.K.「ワラッテイイトモ、」と村上春樹『アフターダーク』

遅ればせながら、早稲田のアップリンク・ギャラリーにて、K.K.の「ワラッテイイトモ、」を見てきた。これはキリンアートアワード2003の審査員特別優秀賞を授与されたヴィデオ作品である。芸術性云々よりも、TV番組「笑っていいとも!」の画像を大量に取り込み編集加工しまくったことに伴う著作権肖像権がらみのスキャンダル性のほうが、話題になった映像だ。サンプリングされたタレントたちが、吃音ならぬ“吃動画”状態にされカクカク動くさまは、見ていて単純に面白い。特に、お気の毒にも、変な顔をばっちりリピートされてしまった本上まなみには笑かしてもらった。
しかし、“現代”アートというより、むしろ懐かしい感じのする作品であった。「森田一義」という実態から離れ「タモリ」という画像が勝手に自立暴走しているみたいな風景、主人公の引きこもり的青年=K.K.が「タモリ」を操っているのか「タモリ」がK.K.を操っているのか主体性が惑乱される様子――これらのテーマは、80年代のメディア批評的作品によくあったものではないか。例えば、CGが人格を持つようになるストーリーで、そのキャラのいかにもデジタル・ノイズっぽい吃音、“吃動画”ぶりがキュートに見えたTV番組「マックス・ヘッドルーム」(85年)ASIN:B00005GBGS、「ワラッテイイトモ、」は近い。そして、タモリはかつて「花王名人劇場」で、「タモリ・ヘッドルーム」(86年10月5日)と題したパロディを演じ、CGキャラに扮してもいたのだった(そのことを武邑光裕が記事にした「GS vol.5 電視進化論」87年刊には、浅田彰の顔が画面上で溶解する過程を追った写真がパラパラ漫画的に刷り込まれていた。アホな時代であった)。
――てなことを連想すると、「ワラッテイイトモ、」は、“現代”アートというよりメディア批評的作品の“伝統”芸ととらえたほうが正しいように思う。

  • 最近書いたもの

上記のうち「90年代以降の洋楽低迷の背景」では、ライヴ会場における巨大スクリーン、MTV、そして「マックス・ヘッドルーム」など、80年代半ばにみられたある種の画面フェティシズムと今時の小さなケータイ画面に対するカジュアル感覚との落差について触れている。
アフターダーク
ところで、「ワラッテイイトモ、」と同程度の懐かしさは、村上春樹アフターダーク』にも感じた。この小説には、綾辻行人暗黒館の殺人ISBN:4061823892のだか判然としない「視点」を一種の登場人物として扱い、その移動を描写する異様なパートがある(いずれ両者の比較論をやってみたい)。
そして、『アフターダーク』では、カメラに喩えられた「視点」がある女を見続けているのだが、彼女はそこから姿を消し、その風景のなかにあるTVの画面の内側に入り込むのだった。『アフターダーク』における現実とヴィデオ映像の境界があやふやになる展開、またその“絵”の見せかたは、デヴィッド・クローネンバーグ監督『ヴィデオドロームASIN:B0000QWX5Yる。――この部分にも、“伝統”芸の感覚がある。