ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

K.K.「ワラッテイイトモ、」と村上春樹『アフターダーク』

遅ればせながら、早稲田のアップリンク・ギャラリーにて、K.K.の「ワラッテイイトモ、」を見てきた。これはキリンアートアワード2003の審査員特別優秀賞を授与されたヴィデオ作品である。芸術性云々よりも、TV番組「笑っていいとも!」の画像を大量に取り込み編集加工しまくったことに伴う著作権肖像権がらみのスキャンダル性のほうが、話題になった映像だ。サンプリングされたタレントたちが、吃音ならぬ“吃動画”状態にされカクカク動くさまは、見ていて単純に面白い。特に、お気の毒にも、変な顔をばっちりリピートされてしまった本上まなみには笑かしてもらった。
しかし、“現代”アートというより、むしろ懐かしい感じのする作品であった。「森田一義」という実態から離れ「タモリ」という画像が勝手に自立暴走しているみたいな風景、主人公の引きこもり的青年=K.K.が「タモリ」を操っているのか「タモリ」がK.K.を操っているのか主体性が惑乱される様子――これらのテーマは、80年代のメディア批評的作品によくあったものではないか。例えば、CGが人格を持つようになるストーリーで、そのキャラのいかにもデジタル・ノイズっぽい吃音、“吃動画”ぶりがキュートに見えたTV番組「マックス・ヘッドルーム」(85年)ASIN:B00005GBGS、「ワラッテイイトモ、」は近い。そして、タモリはかつて「花王名人劇場」で、「タモリ・ヘッドルーム」(86年10月5日)と題したパロディを演じ、CGキャラに扮してもいたのだった(そのことを武邑光裕が記事にした「GS vol.5 電視進化論」87年刊には、浅田彰の顔が画面上で溶解する過程を追った写真がパラパラ漫画的に刷り込まれていた。アホな時代であった)。
――てなことを連想すると、「ワラッテイイトモ、」は、“現代”アートというよりメディア批評的作品の“伝統”芸ととらえたほうが正しいように思う。

  • 最近書いたもの

上記のうち「90年代以降の洋楽低迷の背景」では、ライヴ会場における巨大スクリーン、MTV、そして「マックス・ヘッドルーム」など、80年代半ばにみられたある種の画面フェティシズムと今時の小さなケータイ画面に対するカジュアル感覚との落差について触れている。
アフターダーク
ところで、「ワラッテイイトモ、」と同程度の懐かしさは、村上春樹アフターダーク』にも感じた。この小説には、綾辻行人暗黒館の殺人ISBN:4061823892のだか判然としない「視点」を一種の登場人物として扱い、その移動を描写する異様なパートがある(いずれ両者の比較論をやってみたい)。
そして、『アフターダーク』では、カメラに喩えられた「視点」がある女を見続けているのだが、彼女はそこから姿を消し、その風景のなかにあるTVの画面の内側に入り込むのだった。『アフターダーク』における現実とヴィデオ映像の境界があやふやになる展開、またその“絵”の見せかたは、デヴィッド・クローネンバーグ監督『ヴィデオドロームASIN:B0000QWX5Yる。――この部分にも、“伝統”芸の感覚がある。