ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

渡邉大輔『謎解きはどこにある』

 栗本薫『ぼくらの時代』と対であるかのように中島梓が刊行した文芸評論集『文学の輪郭』を読んだことが、ミステリ評論に関する私の出発点の一つとなっている。群像新人賞評論部門を受賞したその表題作「文学の輪郭」は、埴谷雄高『死霊』、村上龍限りなく透明に近いブルー』、つかこうへい『熱海殺人事件』を並べて論じたことで話題になった。つか作品がミステリのパロディ的内容であることを踏まえれば、「文学の輪郭」を一種のミステリ評論ととらえることは可能だろう。私はそのように読んできた。

 一方、渡邉大輔『謎解きはどこにある 現代日本ミステリの思想』は、主に「メフィスト」、「ファウスト」以降の現代ミステリを論じた内容だが、埴谷『死霊』を対象とする第一章から始まっている。映画史研究者である著者が、映画と探偵小説への関心も深かったこの戦後文学者の思弁的小説『死霊』を、「メフィスト」的な青春ミステリの流れにおいて読むという大胆な試みだ。同じく埴谷をとりあげた「文学の輪郭」を思考の一つの出発点にしてミステリ評論を書いてきた私には、『謎解きはどこにある』のこの書き出し方は興味深いものだった。

 

 埴谷と映画のかかわりという渡邉の関心の視点から「文学の輪郭」にさかのぼるならば、映画の闇と光源にある種の思想的な喚起力を感得した埴谷に対し、村上龍限りなく透明に近いブルー』は、一人称視点のカメラ的で即物的な描写が指摘されていたのだし、映画好きの作者本人はよせばいいのに後に映画監督になった。また、つか『熱海殺人事件』は、作者による同名演劇の小説化であり、その点を指摘した柄谷行人文芸時評中島梓はカテゴリーの異なるものを並べて論じたと批判した。だが、同作は、工員によるブス殺しというさえない事件を、世間に出して恥ずかしくないドラマチックな事件に仕立て直す物語だった。つか作品に関してはそこに差別のテーマを読みとるのが一般的傾向だが、中島梓はむしろテレビ時代における筒井康隆的な事件の擬似イベント化を読みとっている。その意味では、テレビ的感覚に浸食された演劇として『熱海殺人事件』をメディア論的に解釈しているといえる。したがって「文学の輪郭」で論じられた埴谷、村上、つかの三者を、映像的なものとのかかわりから論じ直す、いわば“映像の輪郭”のような観点もありうるのではないか、と思った。

『謎解きはどこにある』では円堂都司昭『「謎」の解像度』に言及し、同書のポイントを次のように指摘していた。

 

現代ミステリの物語世界の秩序や想像力を根本的に規定する、世界の複雑さ、不確定さと、それに伴う個々人の認識(知)を凌駕するある種の非人称的な全体性(統御システム)の存在、さらに逆説的にも、そこからオルタナティヴな可能世界へ絶えず逃れ去ろうとする個体の意志との不断の拮抗状態

 

 この整理には、同書の著者として納得感が大きかった。ミステリ評論を書いていた私がなぜディストピアを論じる方向へ進んだのか。引用文の「世界の複雑さ~」以降の関心が、後に私に『ディストピア・フィクション論』、『ポスト・ディストピア論』を書かせることになったのだ。

 

 

最近の自分の仕事

-天祢涼『少女が最後に見た蛍』レビュー → 「ミステリマガジン」3月号

-「日本ミステリー文学大賞の軌跡」第9回<第七回大賞受賞 森村誠一>、「アフタートーク 著者×担当編集者」第13回<『ぎんなみ商店街の事件簿』井上真偽(作家)×奥田素子&三橋薫(小学館)>の聞き手・構成 → 「ジャーロ」No.92

-批評的な知性や感性が難局に立たされている――渡邉大輔『謎解きはどこにある』×若林踏『新世代ミステリ作家探訪』対談 https://realsound.jp/book/2024/02/post-1558724.html?fbclid=IwAR1xxnTFjkBgkWd438gcLIJN2CD6vaImnaI647QJfiB241ioXN1bHCjf2qY