「近代文学の終り」のゼロ年代/七〇年代
妙に既視感を伴う風景だった。ここでは新しさが競われているにもかかわらず、彼らは、ある意味で新しさを禁じられた状態にいた。かといって、たとえ過去によく似た風景があったとしても、今の彼らはもう過去と同じではありえない。それが批評をめぐる現在(あたらしさ)だ、ということになるだろうか。
――二〇〇九年三月十三日、TOKYO CULTURE CULTUREで行われた「東浩紀のゼロアカ道場」第五回関門に対する感想である。ゼロアカ道場とは、講談社BOXというレーベルが主催し、東浩紀が道場主となってゼロ年代の新しい批評家を見出そうとしている企画。応募者たちには六つの関門が立ちはだかり、最後まで勝ち抜いた一人にのみ講談社BOXから初版一万部でのデビュー作発表の権利が与えられる。この企画は、関門ごとの当選、落選の姿をネットなどで伝え外部からの興味をひくという、リアリティ番組的なノリを批評の分野に持ち込んだのが特徴だ。
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その第五関門は、ここまで勝ち抜いた八名がそれぞれ出版したい自著の内容についてプレゼンテーションし、道場主の東浩紀、企画の仕掛人である講談社の編集者・太田克史、特別審査員の作家・筒井康隆、現代芸術家・村上隆から公開で口頭試問を受けるものだった。観客を入れた会場の様子は、ニコニコ動画で生中継された。そして、私が微妙な既視感を覚えるとともに大きな興味を持ったのは、ここに集まった若き批評家志望者たちの扱ったテーマの並びぐあいである。核心からいってしまえば、ゼロ年代の批評を目指すこの場に持ち出されたテーマの数々は、意外にも一九七〇年代後半における批評−サブカルチャーに存在したテーマ群と配置がよく似ていたのだ。二つの時代に共通しているのは、「終り」という概念である。
そのことを象徴していたのは、第五関門を通過できた三名のうちの一名、坂上秋成の認識である。彼は「クレオール化する日本文学」のタイトルでデビュー作を書くとしてプレゼンを行った。彼は同人誌を作るのが課題だった第四関門においても、すでに「クレオール化する日本文学」と題した短い論考を執筆していた。坂上のプレゼンは、同人誌「プラトー」に掲載された同論考の延長線上にあった。彼は、現在分断されている小説の諸ジャンルに関し、ある種の「全体性」を夢みようとして「クレオール化」の概念を持ち出す。その適否はべつとして、私が興味を持ったのは、坂上が柄谷行人の「近代文学の終り」宣言を意識したうえで主張を組み立てたことである。時間の限られた第五関門のプレゼンでは柄谷の宣言に直接触れていなかったが、同人誌版「クレオール化する日本文学」の方は次のように書き出されていた。
――ある批評家の話から始めよう。
彼は「近代文学の終り」を宣言した。宣言は初め二〇〇三年に講演の形で行われ、文芸誌に掲載された後、二〇〇五年十一月にいくつかの論文とともに書籍として出版されている。この宣言は驚きを持って迎えられ、多くの作家、批評家が批判を行った。
坂上のいう批評家とは柄谷行人であり、文芸誌とは「早稲田文学」、書籍とは『近代文学の終り』を指す。坂上は柄谷が宣言した「終り」に反発し、こう書いていた。
結局のところ、柄谷のいう小説とは二〇〇八年現在における純文学に過ぎないのであり、「大きな物語」がその権威を保証してくれなくなった状態ではひどく狭量なジャンルにとらわれた言説に過ぎないのである。現時点における「小説」とは純文学、ライトノベル、美少女ゲーム、エンターテインメントといった活字を用いて文章を構成する作品群全てに適用される広範なものであるべきだ。純文学以外の作品群は近代文学が終わった後に突然現れたわけではない。
このように批判する坂上は、それでも純文学の「終り」については柄谷の宣言に一定の妥当性を認めているらしい。ここでいう「近代文学の終り」は、ゼロ年代の出来事として扱われている。確かに、柄谷がそれを「宣言」したのはゼロ年代だった。だが、坂上の同論考では言及されていないものの、柄谷は以前から「近代文学の終り」を指摘していたのであり、なんと三十年以上前の七〇年代後半についても「終り」を観察していたのだ。
「大きな物語」の二度の凋落
柄谷は『日本近代文学の起源』(一九八〇年)の講談社学芸文庫版(八八年)あとがき(「著者から読者へ」)において記していた。
一九七〇年代の半ばに、大きな転換期があったことは明らかである。日本の近代文学の起源について考えていたとき、私は、日本の同時代の文学のことをまったく考えていなかった。しかし、日本に帰って、文芸時評(『反文学論』所収)をはじめた時、そこに近代文学が決定的に変容する光景を見いだした。一つの特徴をいえば、それは「内面性」を否定することだったといえる。(中略)言葉遊び、パロディ、引用、さらに物語、つまり、近代文学が締め出した全領域が回復しはじめたのである。
八八年時点でそのように指摘した「変容」を、柄谷はやがて「終り」といいかえるようになる。二〇〇二年に刊行された『日本近代文学の起源』中国語版への序文にはこうある。
私がこの本を書いたのは一九七〇年代の後半であった。あとから気づいたことだが、私がこれを書いていた当時、日本における「近代文学」が終ろうとしていた。いいかえれば、文学に特別に深い意味が付与された時代が終ろうとしていた。
このように柄谷は八〇年代以後、たびたび「近代文学の終り」を語ってきたのだが、奇妙なのは「終り」の時期がぶれていることだ。書籍『近代文学の終り』に収められた論考の間にも、ぶれは確認できる。
だが、一九九〇年代に、そのような文学は急激に衰え、社会的知的インパクトを失い始めた。ある意味で、中上健次の死(一九九二年)は総体としての近代文学の死を象徴するものであった。
「文学の衰滅」
ところが、一九八〇年代に顕著になってきたのは、逆にそのような「主体」や「意味」を嘲笑し、形式的な言語的戯れに耽けることです。近代小説にかわって、マンガやアニメ、コンピュータ・ゲーム、デザイン、あるいはそれと連動するような文学や美術が支配的となりました。
「近代文学の終り」
柄谷にとって近代文学は、七〇年代、八〇年代、九〇年代、ゼロ年代と衰滅し続け、ひたすら「終り」続けたものと把握されている。
一方、坂上は、柄谷のいう「近代文学の終り」の背後に「大きな物語」の権威失墜があると述べていた。「大きな物語」とは、社会全体が共有する価値観や理想を指す思想用語だが、日本では六〇年代の社会運動・学生運動の波がひいた七〇年代以降、「大きな物語」は凋落したとするのが通説である。また、見田宗介の議論を参考にしつつ大澤真幸は、『虚構の時代の果て』(九六年)で「大きな物語」の機能していたのが「理想の時代」、その権威が失墜しサブカルチャーなどが「大きな物語」を代理したのが「虚構の時代」だと論じた。東浩紀も大澤の議論を参考にしつつ、オタクを通した日本社会論『動物化するポストモダン』(二〇〇一年)を執筆したのだった。しかし、「大きな物語」がフェイクとして成立した「虚構の時代」すらも、オウム真理教による地下鉄サリン事件の起きた九〇年代半ばに終ったとする見方で、東や大澤などの論者たちは共通している。
つまり、柄谷が「近代文学の終り」を観察し続けた七〇年代〜ゼロ年代は、「理想の時代」の終焉の事後確認から「虚構の時代」の終焉の事後確認までの期間といいかえられる。「大きな物語」は、一度目は「理想」として、二度目は「虚構」として終ったのだ。「大きな物語」の凋落は当然、諸価値の乱立を招くわけだが、ゼロアカ道場第五関門に話を戻すと、勝利した一人である廣田周作と、敗退した三ツ野陽介がこれに関連したテーマを取り上げていた。廣田は、阪神淡路大震災やウィンドウズ95の発売があった九五年に、日本人それぞれの時間がバラバラになり非同期化したと論じていた。一方、三ツ野が説明した自著のタイトルは「砕け散った世界の破片をつなぎ合わせるための方法序説」というもの。坂上、廣田、三ツ野などゼロアカ道場生の多くは、現在の状況がバラバラであると認識しており、それに対しなんらかの統合性を目指す点で体質的に似通っている。
ゼロ年代と七〇年代
坂上が「クレオール化する日本文学」で柄谷の純文学偏重を批判した背景には、大塚英志や東浩紀の議論をきっかけとした、ゼロ年代の文芸批評におけるライトノベルへの関心の高まりがあった。また、柄谷は、「言葉遊び、パロディ、引用、さらに物語」や「マンガやアニメ、コンピュータ・ゲーム、デザイン」を「近代文学」に対置していた。これら諸ジャンルが目立ち始めたのも、さかのぼれば七〇年代である。ライトノベルの源流とされるソノラマ文庫やコバルト文庫の創刊、日本パロディ広告展などのパロディ・ブーム、『宇宙戦艦ヤマト』のヒットに伴うアニメ人気、コミック・マーケットのスタート、「スペースインベーダー」などテレビゲームの隆盛……。いずれも七〇年代の出来事である。
ラノベの起源に関しては七〇年代以外にも、八〇年代の『ロードス島戦記』、九〇年の『スレイヤーズ!』など、どの時点からとすべきか諸説ある。この起源のぶれは、柄谷の「近代文学の終り」が七〇年代からゼロ年代までぶれがあるのと対応しているようにみえる。
一方、ゼロアカ道場第五関門では、もう一人の勝利者、村上裕一が、2ちゃんねる、UGCで共有されている「キャラとは違うメタ物語的主体」を「ゴースト」と名づけ分析することを提唱していた。また、峰尾俊彦は、ニコニコ動画などを対象に「MAD的想像力」をキーワードにした評論をプレゼンした。二人が批評対象とした、引用・パロディなどによる一般人の二次創作的なものが、コミケなどを中心に発達し始めたのも七〇年代である。
さらに、ゼロアカ道場第五関門では、斎藤ミツがBL(ボーイズ・ラヴ)論のプレゼンを行ったが、コミケがBL、やおい的なものを育てたことはいうまでもない。柄谷行人、宮台真司、東浩紀、鈴木謙介、濱野智史などの書き手の影響を受け、ゼロ年代批評の現状を反映して若い批評家志望者たちが持ち出してきた「近代文学の終り」、「大きな物語」の終り、二次創作、BLといったテーマやモチーフは、現在の問題でありつつ七〇年代の問題でもあったわけだ。「近代文学の終り」と二次創作の隆盛が分かちがたいワンセットだったことは、ここまでの状況整理で理解できるだろうが、BL的なものにしても当時の状況と結びついて発生したといえる。パロディがブームだった七〇年代において、女性向け男性同性愛作品も、まずパロディの一種として登場することで居場所を見つけたのだから。
ゼロアカ道場生たちはデビュー作一万部の権利を目標に競い合い、落とし合わなければならない。したがって、集団で行われた口頭試問ではあれかこれか、八人のうち勝者三人は誰かという方向で議論するしかなかった。
しかし、道場生たちの掲げた諸テーマが、七〇年代において状況的に呼応しつつ発生したことを考えれば、むしろバラバラに論じていた彼ら自身こそ、各人のテーマをなんらかの形で「統合」してとらえる観点が必要なのではないか――というのが、第五関門をみての私の感想である。その意味で彼らは、現在(あたらしさ)を論じていながら、過去にできあがったテーマの個々に拘束されていた面がある。それは若い批評家志望者たちの問題というより、現在の批評が陥っている問題の反映ととらえたほうが正しいだろう。問題を映す鏡になった点において、彼らの登場した意味はあった。そして、「統合性」の観点の獲得は、次の第六関門で決定する優勝者が今後背負うべき課題の一つかもしれない。
「ファウスト」と「幻影城」
ゼロアカ道場を主催する講談社BOXは、ライトノベル寄りのエンターテインメント小説をメインとするレーベルである。これは、西尾維新、竜騎士07などの小説を軸にして成功した雑誌「ファウスト」の流れから生まれたレーベルといってよい。同誌編集長の太田克史は、以前から小説だけでなく批評も重視すると明言しており、東浩紀とゼロアカ道場を始めたのもその一環だった。そこで興味深いのは、太田が雑誌「幻影城」へのリスペクトを表明していることだ。
一九七五〜七九年に刊行された「幻影城」は、当時、松本清張流の社会派推理小説に圧倒されていた本格ミステリの再評価、復興運動の場となった雑誌である。ここからは泡坂妻夫、連城三紀彦、竹本健治、栗本薫、田中芳樹といった錚々たるメンバーがデビューしたが、後に残した影響のわりに短命だったため“伝説の雑誌”として語られている。そして、「幻影城」の影響下にある作家たちが八〇年代後半以降、続々とデビューして新本格ミステリのムーヴメントが起こり、新本格が生んだ鬼子たちといえる西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉らを初期の主軸として二〇〇三年に「ファウスト」が創刊され、ついで講談社BOXがスタートした――というのが、エンターテインメント小説における一つの流れであった。「幻影城」を回顧した労作同人誌『幻影城の時代』が大幅に増補され、二〇〇八年に講談社BOXから「完全版」としてあらためて発刊されたことには、そうした背景があった。
その『幻影城の時代 完全版』発行に先立って、「ファウスト」vol.7(二〇〇八年)には、「幻影城」編集長だった島崎博と太田克史の対談が掲載された。そこで太田は、批評を重視した島崎の編集方針を賞賛しており、島崎は「『幻影城』をミステリー界における『群像』に」したかったのだという話題が出てくる。これについて本人は説明している。
立ち位置として。『小説現代』があって『群像』があるっていう。同じように、『小説推理』があって『幻影城』がある、というふうにしたかった。
ミステリ専門の娯楽小説誌に純文学雑誌的な手法を取り入れた島崎の編集者としての気質については、「『獲得言語』編集者の果たした役割――馬海松と島崎博」(『幻影城の時代 完全版』所収)で末國善己が論じている。末國は、島崎が「幻影城」で作家の書誌研究を重視した一方、個人として石原慎太郎、曽野綾子、南條範夫、新田次郎の書誌も手掛けたことに触れ、「探偵小説、純文学、時代小説、中間小説といったあらゆるジャンルを、等価値のものとして評価していた」と指摘した。
そのような編集者・島崎は、「幻影城」で新たな書き手の発掘を目指して幻影城新人賞をスタートし、小説部門だけでなく評論部門を設けた。「幻影城」の影響を受けて出発した新本格ムーヴメントでもそのような批評重視の姿勢は受け継がれ、東京創元社が創元推理評論賞(九四〜〇三年)を設けた。その受賞者を中心に探偵小説研究会(巽昌章、法月綸太郎、千街晶之、佳多山大地、横井司、末國善己、円堂都司昭など。退会者に笠井潔)が結成されたが、基本的に“新本格評論家”であった彼らは、講談社でいえば新本格作品が頻繁に刊行されていた時期の講談社ノベルスに呼応するように現れた集団だった。また、文芸界においてラノベ的なものの存在感が増した「ファウスト」以後の潮流変化に対しては、やはり批評家集団、限界小説研究会(笠井潔、小森健太朗、渡邉大輔、蔓葉信博、前島賢など)が組織され、現在、講談社BOXではゼロアカ道場が催されている。エンターテインメント小説に関して「幻影城」〜新本格興隆期の講談社ノベルス〜「ファウスト」〜講談社BOXの流れがあったのに対し、批評でも呼応した流れがあったのである。
しかし、ゼロアカ道場において、主催側の講談社BOX、道場主・東、批評家志望者たちのいずれもが、かつての「幻影城」を意識せぬまま動いているようにみえる。島崎博が、娯楽小説誌らしからぬ純文学雑誌的な編集方針を持ち込むようなジャンル横断的な体質を持っていたにしても、「幻影城」という雑誌自体は、古風な本格ミステリに特化したマニアックな内容だった。それゆえに、他の分野や後の時代にも通じるような観点を内包していたことが伝わりにくいのだろう。しかし、先に述べたごとく、ゼロ年代と七〇年代後半の批評状況はよく似ており、「幻影城」周辺にあった問題意識は現在にもあてはまる要素がある。「幻影城」作家の一人でもあった栗本薫/中島梓という存在を考えれば、そのことは理解できる。
先行者としての中島梓/栗本薫
中島梓は七七年、埴谷雄高、村上龍、つかこうへいなどを論じた「文学の輪郭」で群像新人賞評論部門を受賞した。七八年に同作も収録した評論集『文学の輪郭』がまとめられたが、純文学だけでなくエンターテインメント作家の西村寿行、マンガの「がきデカ」、萩本欽一のバラエティ番組まで俎上にのせるクロスオーバーぶりが、当時は珍しがられた。彼女は同年、栗本薫名義の『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞を受賞しミステリ作家としてもデビューしたため、注目される人となった。
しかし、『文学の輪郭』は評価された評論集とはいいがたい。群像新人賞では選考委員のうち福永武彦の強い推薦で受賞したが、同じく委員だった埴谷雄高の選評は福永に同調しただけといった熱のないもの。当時の文芸時評をみても、奥野健男は「文学的志や情熱のない達者で器用な文学状況の見取図」と切り捨てており、江藤淳は無視していた。だが、中島の評論に一定の評価を与えた者もいた。柄谷行人である。彼は『文学の輪郭』に収録された一編「表現の変容」について「新鮮に感じられた」として、文芸時評でこう記した。
つかこうへいの戯曲やギャグ漫画「ガキでか」(ママ)などを考察して、中島氏は、現実に対して表現の自立をめざすというような「現実と虚構」の対置図式そのものをこえる、「表現にかかわる意識それ自体の変容」を指摘している。若い世代の中島氏が今日の風俗現象に積極的な意味づけを与えようとしている点において、一読に値する。(『反文学論』七九年)
この時評では「ここ数年の情勢論ではなく、もっと根底的であるべきだ」と苦言も呈しているが、すでに触れた通り、柄谷本人も七〇年代後半の同時代に文学の変容、終りをみていたのだ。そのことを踏まえれば、柄谷が変容を論じた中島の文章に言及していた事実は興味深いし、『文学の輪郭』はもっと再注目されていい評論集と思われる。
では、中島梓が七〇年代後半に『文学の輪郭』で主張した「表現の変容」とはなにか。表現と現実、虚構と非・虚構の対置構造の認識体系の変化である。その変容を観察した中島は、「はじめから表現され了った現実の上に生まれてきた」、「私たちにとって体験とは様式の選択以上のものではありえない」、「私たちが前にしているのは、現実そのものが疑似現実としてはじめて承認されるような時代なのである」などと記していた。
「現実」と「虚構」とは表現される様式であることにおいて等価である。
こうした認識に立つ中島が評論のキーワードにしたのは「パロディ」であり、あらゆるものが相対化されパロディになってしまう状況にこだわったのだった。中島は「群像」七七年六月号に「文学の輪郭」が掲載される以前から評論活動を始めており、同年の「幻影城」一月号には栗本薫名義で幻影城新人賞評論部門佳作となった「都築道夫の生活と推理」を、七六年刊の別冊新評「筒井康隆の世界」に「悲壮な不まじめさ、献身的な不謹慎」(栗本薫名義。これが商業誌デビュー)という筒井論を発表していた。そして、群像新人賞受賞に先行する都築論、筒井論のいずれもがパロディをテーマにした『文学の輪郭』と地続きの内容を持っていた。都築論では、パロディの一種として探偵小説の様式美を選択した都築道夫作品のダンディズム、という観点から文章を展開していた。
この観点は当時、中島梓/栗本薫だけが持っていたわけではない。栗本薫が幻影城新人賞に入選した前年の「幻影城」七六年二月号では、津井手郁輝「探偵小説と笑い」と寺田裕「ゲームの規則」が同賞佳作となっていた。このうち前者は、やはりパロディの観点から探偵小説ジャンルをとらえたものであり、後者は次の文章を含むような内容だった。
本来不可分であるべき探偵と謎解きのどちらかを選ぶとすれば、探偵を選ぶとでもいうように、あるいは選ぶことが可能であるとでもいうように、探偵小説と探偵はその形式性故に宿命的にスノビスムを甘受しなければならない。スノビスムは同じ探偵の登場する連作を可能にするだろう。
寺田のこの文章は、キャラクターならぬキャラを分解された要素の組み合わせだと論じた東浩紀『動物化するポストモダン』(〇一年)を連想させないか。東は同書において、コジェーヴのいう日本式スノビズム(合理的な理由がないにもかかわらず、形式化された価値に基づいてそれを選択する行動様式)に着目していた。そして、「大きな物語」の凋落後には、日本式スノビズムか動物化しかないとするコジェーヴの見方をもとにオタク論を展開した。キャラ論もその一部である。
このように、「大きな物語」、「理想の時代」が終焉した七〇年代後半の「幻影城」周辺で展開されたパロディ、様式美、スノビズムに関わる議論をあらためて参照すると、ゼロ年代の批評に大きなインパクトを与えた東の議論と接続しうる部分があることが見出される。また、二十代でデビューした中島梓は文芸評論の領域にテレビやマンガを持ち込む一方、マンガ界を舞台にした栗本薫名義の小説『ぼくらの気持』(七九年)ではまだ草創期だったコミケ周辺の様子を描いていた。さらに、中島/栗本は、ボーイズ・ラヴ、やおいの源流となった雑誌「JUNE」(七八年創刊)に初期から深くかかわっていた。このような配置を考えると、講談社BOXが七〇年代後半をふり返る『幻影城の時代 完全版』を発行すると同時に、ゼロ年代の批評を目指すゼロアカ道場を主催するのは、当事者が意図せずとも内的な必然性、関連性があったといえる。
MADと筒井康隆
七〇年代におけるパロディへの注目は、べつに中島梓/栗本薫や「幻影城」周辺だけで起きていたわけではない。六八年をピークとした学生運動、社会運動の波が七〇年代初頭に失速し、「理想の時代」が終った反動で日本にパロディ・ブームが訪れた。その象徴的出来事が、マッド・アマノのパロディ裁判だった。これは写真のコラージュによるパロディ作品を得意にしたマッド・アマノが、写真家・白川義員から著作権侵害で訴えられた事件であり、多くの文化人や作家を巻き込んだ議論が七〇年代に展開された。しかし、マッド・アマノのパロディ観は、権威をからかうための手法といったものだったが、中島/栗本が評論でこだわったパロディはそれとは異なっていた。マッド・アマノは批判されるべき権威の存在を前提にしていたが、中島/栗本はすべてが相対化されパロディ化される地平、権威やオリジナルという概念が失墜した地平で考えていたのである。その意味で彼女のパロディ観は、マッド・アマノよりも後の時代のMADムービーに近い。
中島は『文学の輪郭』で、そのような地平を出現させた条件としてテレビをあげていた。
しかし、TV、という、現実を直接に虚構化し、虚構を具象の形式でのみ提出する表現形式の普及は現実と虚構、いずれのうちにも、「見るもの−見られるもの」の対立関係を交叉させたのである。
もはや、あらゆる点で、表現は保証を確信し得なくなった。「見られるもの」が現実の領域に確固として存在するとき、見るものははたして見るものを演技することを見られるもの、でないと断言し得るか?
このように、現実と虚構が等価になった地平におけるパロディの優れた書き手として、中島はたびたび筒井康隆に言及した(ちなみに筒井は、パロディ裁判をめぐってマッド・アマノ擁護の署名に名を連ねた一人)。『文学の輪郭』において中島は、つかこうへいに論の多くをあてていたが、それも、つかの『小説熱海殺人事件』に筒井的パロディ手法のウルトラ化を読み込んだためだった(中島がこれらの評論を執筆したのは、筒井が自身の手法をウルトラ化し「超虚構」を標榜した作品を書き始める以前のこと)。筒井は、メディアの介在で現実と虚構が等価になる擬似イベントもの(『48億の妄想』、『東海道戦争』など)に秀作の多い作家だった。
中島が『文学の輪郭』を書いたのは、もうテレビがすっかり普及していたとはいえ、一般家庭へのヴィデオデッキ、テレビゲーム、コンピュータの普及以前、衛星放送の登場以前、「ヴァーチャル・リアリティ」という言葉も輸入されていない時代だった。そのようなアーキテクチャの状況におけるパロディのありようを中島梓は論じたわけである。しかし、『文学の輪郭』はろくに評価されず、中島/栗本自身もやがて評論家であるよりは言霊を信じる物語作家であることを重視したため、その議論がさらに発展することはなかった。また、八〇年代のニュー・アカデミズム・ブームでは、かつて中島/栗本が「パロディ」の語で検討したテーマ領域が、「シミュラークル」(ジャン・ボードリヤール)、記号論などのテクニカル・タームで語られた。そして、上書きされたファイルのように『文学の輪郭』は忘却されたのだった。
一方、二〇〇九年にニコニコ動画で生中継されたゼロアカ道場第五関門には、特別審査員の一人として筒井康隆が召喚された。出歯亀評論家、性病評論家、万引評論家など奇妙な評論家たちが集結し、マスコミをにぎわす大スターになったあげく籠城して戦闘状態となる『俗物図鑑』(七二年)。そのような擬似イベント作品を執筆したことのある筒井が、批評のリアリティ番組化であるゼロアカ道場に登場するのは、当然の成り行きだった。
ゼロアカ道場では、道場生たちの多くが批評テーマとしてインターネット環境、2ちゃんねる、ニコニコ動画を選ぶ一方、彼ら自身が2ちゃんねるやニコニコ動画などでネタ化される現象がみられた。中島梓は『文学の輪郭』で、テレビというアーキテクチャを背景に現実と虚構が等価になる状況を論じたが、ゼロアカ道場ではインターネットというアーキテクチャを背景に現実と虚構が等価になる状況がテーマになっている。それを象徴したのが、途中敗退した藤田直哉だった。彼は呑み会での雑談やカラオケ、あるいは無礼を働いた関係者への自分の謝罪風景など、ゼロアカ道場に関連した現場をあれこれ撮影し、ネットに動画をアップした。「ザクティ革命」と呼ばれたその行為は、ネット上で奇妙な盛り上がりをみせた。ニコニコ動画で中継された第五関門においても、第四関門で敗退した藤田が会場に乱入し、怒った筒井に彼が説教されるシーンが一つのハイライトになっていた。
この光景を会場で目にした時、私は『文学の輪郭』の次の部分を思い出していた。
萩本欽一というコメディアンがおり、自ら町なかへ出て通行人を彼のコントにひっぱりこんだ。それははじめ爆発的な笑いをひきおこし、ブームとなったが、やがて驚くほどすみやかにしずまっていき、彼の番組は元どおり「タレント」と笑いを「演じる」ものに戻った、というのは、現実と虚構にまたがって、その多重性をそこなわぬまま笑おうとすることが、TVのこちらにいる私たちにいずれはうさんくさい試み、対置構造の倒錯として、その力を失ってみえてくる、ということのあかしではないだろうか。
中島はここで、「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(七五〜八〇年)初期の手法を一過性のものとみなしたが、それは形を変えて何度も蘇り続けた。その意味で藤田の「ザクティ革命」はゼロ年代の「欽ドン」ともいえるが、彼がタレント側なのか素人側なのかはもはや判断できないし区別する意味もない。そのことが、かつてのテレビ主体のアーキテクチャからネットが普及したアーキテクチャへという変化を示している。
現在の状況は、最近始まったものではない。ゼロ年代において「統合性」の観点を獲得しようとするなら、七〇年代からゼロ年代という期間の変化を見定めることが必要だろう。