『ゼロ年代の論点』の終章に関しては、現行ヴァージョンとは違う内容を当初(=昨年末)には計画していた。東浩紀編集長の雑誌『思想地図β』のファンクラブ的位置づけである「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に連載されている宇野常寛の小説「AZM48」についての考察を入れようとしていたのだ。実際、メモもとっていたし、プラン通りに書いていたら、400字詰め20枚くらいになったかもしれない。
「AZM48」は「AZM」が「あずま」を含意しているように、東−宇野周辺の実在する若手批評家たちが変名で大勢登場し「男−男」の絡みが語られるやおい的なパロディになっている。若手批評家たちがつるみ、居酒屋での盛り上がりなどをツイートしたりしている状態は、ホモソーシャル性が批判されもする。それを受けて逆に自らホモセクシュアルを演じてみせる批評的なパフォーマンスだ――そんな理由づけが「AZM48」には、とりあえず担保されている。
とはいえ、これを、内輪受けの悪趣味な悪ふざけだと感じて嫌悪する人も少なくない。しかし、見ようによっては「AZM48」みたいなものが登場すること自体にも歴史的必然性はあったのではないか。それが、幻の「AZM48」論の着想だった。
僕は以前、中島梓(=「グインサーガ」の栗本薫)が文芸評論家としてデビューした70年代後半とゼロ年代のゼロアカ道場を対比した文章を書いたことがあった。
http://d.hatena.ne.jp/ending/20090527#p2
幻の「AZM48」論は、そのヴァリエーションのようなものとして考えていた。
70年代の中島梓は、素人が簡単にテレビに引っぱりだされイジられて笑いが起きる萩本欽一の番組や、筒井康隆の小説などを参照しつつ、同時代における虚構性の変化を評論集『文学の輪郭』で考察していた。それはテレビやマンガ、SFやミステリーなどサブカルチャーに言及している内容ではったが、あくまで、「群像」という純文学雑誌に掲載される真面目な文芸評論として書かれていた。
しかし、一方で中島梓/栗本薫は、70年代にスタートしたコミケ文化の同時代人でもあった。後のやおい、BLの源流といえる女性向け男性同性愛雑誌「JUNE」に創刊時からディープに関わり、その種の小説を多く執筆して後進を育てる小説道場も展開した。もともと彼女は、テレビドラマで共演していた沢田研二と藤竜也の関係を妄想することからJUNE小説(←やおい、BLの昔の呼称。耽美小説とも呼んだ)を書き始め、オリジナルの創作へと進んだのだった。草創期のコミケ同人誌文化にもみられたその種のホモパロディも、同時代的な虚構性の変化のあらわれだったといえる。
しかし、当時の文芸評論家・中島梓とJUNE小説の先駆者・栗本薫は、執筆場所も読者層も異なっており、まるでべつの文筆家のように受容されていた。彼女は間もなくエンタテインメント小説に注力するようになり、短期間の関わりだけで純文学雑誌からは遠ざかった。そんな事情もあり、大文字の「文学」の場で虚構性を「批評」する際に彼女がホモパロディをモチーフにすることはなかった。
中島梓は、栗本薫として『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞を獲ったミステリー作家でもあり、後の新本格ミステリーのルーツのひとりともなった。マンガ業界を舞台にした同作の続編『ぼくらの気持』では、同時代の一風変わった若者風俗としてホモパロディを楽しむ同人誌作家たちの生態が描かれていた。
一方、やはり新本格のルーツの一人であり、後にこのジャンルの理論的指導者のごとき立場になったのが、島田荘司である。90年代には、その島田荘司、有栖川有栖、京極夏彦など新本格系作家の作品を扱ったパロディ同人誌がよく作られていた。同人誌では、ミステリーとしての仕掛けよりキャラ萌えに軸足を置いた小説やマンガが多く、探偵役とワトソン役など作中の男性キャラ同士の関係を妄想するやおいものも少なくなかった。
従来からのミステリーマニアには、そうしたミステリー要素軽視の傾向に対する不快感がみられ、作家の間にも戸惑いが広がった。だが、新本格の理論的指導者のごとき立場である島田荘司の態度は、違っていた。島田は同人誌作家たちを集め、彼らと共作の形で本を出版することで、コミケ的なパロディ活動を肯定してみせたのである(『御手洗潔パロディ・サイト事件』『パロサイ・ホテル 御手洗潔パロディ・サイト事件2』)。
栗本『ぼくらの気持』では、同人誌パロディが世間から珍しがられる若者風俗として描かれていた。これに対し、島田はコミケ的パロディの流通は、作品を市場に発表するものにとって、すでに前提とすべきほどに環境化していると、同人誌作家たちとの共作によって示したのだ。
そして、新本格の影響下に清涼院流水、続いて西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉などの「ファウスト」系作家が登場。彼らやセカイ系を評価した東浩紀を批判して宇野常寛が名を上げた後、二人は共闘。東編集長『思想地図β』が創刊され、そのファンクラブ会報的な「しそちず」で宇野は「AZM48」を連載開始――となった。
このように歴史的系譜を描いてみると、ちょっとした感慨を覚える。「AZM48」はコンテクチュアズ友の会会員という限定された人々に向けたコンテンツだが、ツイッターではそれに関連した発言を宇野、東たちは多くしている。その意味では「AZM48」というホモパロディを知る人は限定的ではない。『思想』の語を冠した「批評」の雑誌のすぐ近くにホモパロディのコンテンツが平気な顔で存在している。そのような「AZM48」のありかたは、中島梓/栗本薫が「群像」と「JUNE」でべつの顔をしなければならなかった70年代とは大きく異なっている。
「会いに行けるアイドル」というコンセプトで誕生したのがAKB48だった。これに対し、近年、書店などでのトークイベントが増えた結果、「会いに行ける若手論壇」とでも呼べる状況になっている。その種の読者との親近性を前提にしたうえでつむがれているのが、「AZM48」という関係性をめぐるファンタジーなのだろう。「批評」が「パフォーマティヴ」であらざるをえない現在において、批評家が批評家たちのホモパロディ小説を書いてツイッターで祭りにしてしまうのは、中島梓、島田荘司の試みの後にメディア環境が変化してきた歴史にとって必然であったのかもしれない……。
――ざっくり雑記してみたが、当初は、おおよそこんな主旨の文章を『ゼロ年代の論点』終章に挿入しようと真面目に考えていた。でも、ふと我にかえり、自分にツッコミを入れたのであった。
正気か?!
ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか? どんな冗談だよ!! また、新書という器なのだから一般的な読者を想定している。なのに、実在の批評家たちをモデルにしたホモパロだなんて、マニアックすぎるわっ。
というわけで、当初プランを自らボツにした。あぶないところだった……。
このプランを考えていた時には予想できなかったことだが、「AZM48」は映画にまでなった(だから、もし今、「AZM48」論を書くなら違う方向性になると思う)。その上映会もあった『思想地図β』創刊記念イベント「そうかん!」に関しては、僕は友の会会員でもあるし、ぜひ行きたいと思っていた。でも、その日は『ゼロ年代の論点』担当編集者の結婚式二次会に出る予定と重なっていた。どちらを選ぶのが人の道として正しいか、いうまでもなかろう。僕は獣にはなれず、人の道を歩んだのであった。
どっとはらい。
※7日追記)東浩紀が用意したプラットフォームの上で、東の近くにいる若手が自分たちの周辺をパロディックにとらえてみせた点では、ゼロアカ道場における藤田直哉のザクティ革命と、「しそちず!」での宇野常寛の「AZM48」連載は、似た図式で成立したものだった。
※7日再追記)書き忘れてた。『ゼロ年代の論点』に関するインタビューがアップされてます。聞き手は「界遊」代表の武田俊氏。
http://www.sbbit.jp/article/cont1/23052