切通理作の著書を読むのは久しぶり。自身の失恋体験の回想を軸に、失恋の考察、失恋に関連する作品の紹介を組み合わせた本。まぁ、こういうものを読むと、当然、自分の体験を思い出したりするわけですが、ここには書きません。ええ、書いたりしませんとも。
“論”と呼ぶには、グズグズな展開になっている。失恋を回想するうちに、感情がたかぶったりしちゃったんだろうなぁ、と想像される。そのぶん、生身のリアリティは伝わってくる。理路整然と冷静に失恋を語られちゃっても、逆にそんなもん、信用できないわけだし。
章の終りごとに「失恋図書館」というコーナーが挿入され、本書のテーマと関係のある小説・映画・マンガ・ドラマなどへの論評が並ぶ。切通らしく特撮映画を取り上げたかと思えば、硬めの評論にも言及するといったぐあいに、ヴァラエティをもたせている。
ところが、第四章の最後では、魚喃キリコの作品ばかり並んでいて、なんだかえらくバランスを欠いている。この「失恋図書館4」の通しタイトルは「お姫様はどこへ行った?編――もう少し好きでいさせて欲しい七本」となっている。
そして、直後の第五章では、切通本人が「もう少し好きでいさせて欲しい」と思っていた女性に向けて書いた、でも出さなかった、長ったらしくも女々しく情けないメールが紹介されている。この文章が、なんとも読んでいて、いたたまれない……。自分はこんな文面、金輪際書いたことがない! と言えない僕であるだけに……。ええ、言えませんとも。
ということは、つまり、切通の「もう少し好きでいさせて欲しい」相手への行き場のない執着心が、直前の「失恋図書館4」では、魚喃キリコへの執着へと姿を変え発散されていたのだな、と思いました。ここらへんの、グズグズ加減に、かえって好感を持ちました(って、同病相憐れむ?)。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20051125#p)
DOB君とマウスくん
http://www.kaikaikiki.co.jp/news/list/murakamis_lawsuit/
自分は“引用”を前提に“アート”してるくせに、なぜか今さら声高にオリジナリティを主張し、他者から著作権を侵害されたのだと訴える。最初は、現代美術的な意味における“パフォーマンス”なのかと思ったが、ベタに裁判であったのだなぁ。――最低である。
オレンジレンジをパクリだと糾弾する人たちが持ち出すオリジナルが、実はそれほど高度なオリジナリティを有しているわけでもないという不思議さ。村上隆による今回の糾弾劇には、それに類する脱力感を覚えてしまった。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050908#p1)
仮に、「マウスくん」というデザインを持ち出したのが、ナルミヤという企業ではなく現代美術家で、しかもその人が“引用”でシミュレーショニズムがスーパーフラットでうんたらかんたら−−と理論武装していたら、村上隆は自分の「DOB君」との関連をこんな風には主張しなかっただろう。
現代美術には現代美術のデータベース消費があり、商業デザインには商業デザインでのデータベース消費が行われている。けれど、データベース消費という意味では同様であるにもかかわらず、村上は今さら“美術”という聖域があると考えてしまった……。
もし、ナルミヤ側が、村上隆からパクったのではなく、村上の“引用”元からパクったのだと、法廷の場で開き直って反論したらどうなるんだろう? そんな現代美術的“パフォーマンス”なら、見てみたいが。
今回の件は、昨年、マンガからの盗用があると糾弾された本格ミステリ小説があったことを、ちょっと思い出させる。本格ミステリは昔から、パスティーシュ、本歌取り、パロディが盛んなジャンルであり、データベース消費が常態化している。一方、マンガもデータベース消費は伝統芸となっている。本格ミステリ、マンガ、それぞれの領域内部でデータベース消費をしているぶんには、表現者、ファンの間でどの程度までならOKなのか、ジャンルの生産性の一種として認められるのか、“暗黙の了解”のようなものが、なんとなく成立している。ところが、データベース消費を行う際、領域と領域を不用意に横断してしまうと、“暗黙の了解”の埒外となり、時には騒ぎになってしまう。
今回の村上隆も、いってみれば、領域侵犯された感覚なんだろう。
領域内でデータベース消費を行っている時の寛容さと、領域外からデータベースにアクセスされた時の不寛容さ。いったい、なんなんだろう、この恐ろしい落差は?