(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 5)
19日に行われる「早稲田文学」主催の10時間連続公開シンポジウムを、自分も見物しに行くつもり。
【プログラム】(予定)
10:30-12:15
ポッド1「文芸メディアの現在――批評的メディアはどうありうるか」パネリスト:東浩紀、宇野常寛、佐々木敦、中森明夫、山本充、前田塁+12:30-14:15
ポッド2「日本小説の現在――現在時の日本小説をめぐって」パネリスト:東浩紀、渡部直己、池田雄一、新城カズマ、大森望、前田塁+14:25-15:00
休憩(エクストラ・プログラムの場合あり)15:10-16:55
ポッド3「文芸批評の今日的役割について」パネリスト:東浩紀、宇野常寛、福田和也(予定)、前田塁+17:10-18:55
ポッド4「読者と小説――批評と書評、文学賞」パネリスト:東浩紀、千野帽子、豊崎由美、芳川泰久、中森明夫、前田塁+19:05-19:40
休憩(エクストラ・プログラムの場合あり)19:50-20:30
ポッド5「総論」
で、出演者の顔ぶれやテーマを知り、事前に思い浮かんだことの走り書き。
書評家は批評を書け/批評家は書評を書け
ポッド4は、出演者、テーマからして、豊崎由美と大森望がやった「文学賞メッタ斬り」トークショー版の今年5月開催分(http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200805/2008_2008525.html)の続編的性格もあわせ持つものだろう。あの時、ゲスト出演した前田塁(市川真人)は、豊崎に対し、短い書評ばかりでなくまとまった長さの批評も書いてくれと迫っていた。前田は、長い批評を書ける書評家が増えればいいのにという発言を佐々木敦『絶対安全文芸批評』収録の対談でもしていた。
その種の前田発言に対し、トヨザキ社長は「本が好き!」(光文社のPR誌)7月号からスタートした「ガター&スタンプ屋ですが、なにか? わたしの書評術」の連載1回目で反発を示していた。
前田さんはウルフ同様、批評が上で書評が下だと思っているのでしょうか。三万字が上で、三百字が下だと思っているのでしょうか。わたしはそうは思いません。問われるべきはそれぞれのジャンルにおける質でありましょう。
http://www.kobunsha.com/shelf/magazine/past?magazinenumberid=1478
その後の「ガター&スタンプ屋」で豊崎は書き手としての自らのスタンスを語り、書評のあるべき姿に関する考察を進めている。それについては今後の展開を楽しみにすることにして……。
前田×豊崎のやり取りでは、批評家が書評家に対し批評を書け、と迫る図式だった。だが、考えてみると、常日頃、出版界にあるのは逆の空気なのではないか。
本の読みどころをわかりやすく紹介する。商品説明+コメント。ブックガイド。短文。――大ざっぱな一般論として、“書評”はそんなイメージを持たれている。
それに対し“批評”は、作品の歴史的位置づけや社会的背景、ジャンル内での意味、構造分析などなど、本という商品の直接的な内容説明、紹介から離れた部分に力点がある。長文。――早い話が、普通の世間からはめんどくさいと思われ、もの好きだけが読むものとみられている。そして、現在、批評は出版されにくい環境にある。
例えば、私は今年、千野帽子などほかの書き手とともに探偵小説研究会としての共著で『ニアミステリのすすめ』を、また単著で『「謎」の解像度(レゾリューション)』を刊行した。この2冊のミステリ批評集を制作する際、それぞれの版元の編集者と話していたのは、“ブックガイド”的なニュアンスを持たせようということだった。結果的には、諸事情によりいずれの本にも作品・作家索引は付けられていないし、ブックガイド色は濃くない。それでも『ニアミステリのすすめ』の帯には「読書案内」の文字があって取り上げた作家の名が並び、作家論集である『「謎」の解像度』の目次にも作家の名が並んでいてガイド・ブック的なトーンはある。
ミステリというエンタテイメントのジャンルでは、純文学以上に“批評”が忌避されがちな傾向がある。このため、商業ベースで出版し少しでも多くの読者に届けたいと考えた場合、営業政策上“批評”が“ブックガイド”的な表情、ある種“書評”的な役割を演じなければならない局面がある。前田×豊崎の図式とは逆に、批評家が書評を書け、と迫られているような空気があるわけだ。批評集が出版されにくい一方、「このミステリーがすごい!」に始まる「この○○がすごい」的なブックガイドのムック・本が飽和状態にあることが、そんな空気を象徴している。
チャート式、値うち、絶対安全
純文学の世界でも、批評家があえて“書評”的に書いてみせる、ということは以前から行われてきた。
例えば、渡部直己『〈電通〉文学にまみれて チャート式小説技術時評』(1992年)asin:4872330676。これは、[メディアの多様化と、たとえば〈電通〉のイメージ戦略に象徴されるような徹底した相対化とがとめどなく進行する現代にあって、ひとり「文芸誌」小説が時代に背を向けて、いうところの「文学的内面」の絶対性に固執しつづける]という同時代(←80年代の気分がまだ残っていた90年代はじめ)への見立てのもと、サブタイトル通りの手法で文芸時評を行ったものだ。
ともかく全部を読んだということを印に残したいという考えがあったんですね。あっちこっちで言ったことの繰りかえしになりますけれども、「黙殺」ということに耐えられなかった。「黙殺」すると、結局、つけ上がるだけじゃないか。
そのような問題意識のもと、「出来事・素材」、「文体・語り口」などのチェック項目を設け、チャート式でガンガン○△×で採点していく。これは“書評”に期待される商品チェックの側面を露悪的に拡大してみせた行為だ。
「文芸誌」小説の全チェックという路線は、その後、佐々木敦「絶対安全文芸時評」に受け継がれた。また、エンタメ、純文学の両面にわたり、多くの小説に片っぱしから点数をつけた福田和也『作家の値うち』(2000年)も、批評家があえて“書評”的チェックを行った本だった。
そして、渡部直己のチャート式という発想は、浅田彰『構造と力』(1983年)にさかのぼれる。大文字の“教養”の時代が終わり、サブカルチャーが一般化した80年代にヒットしたこの現代思想系批評本を、浅田はチャート式に書いたのだった。読み捨てられる参考書でよく用いられるチャート式によってあえて書くことにより、“教養”、“批評”の神格性が希薄化しつつあった同時代に対応したということ。
三万字VS.三百字
考えてみれば、ゼロ年代の書評/文芸批評界において最も目立つシリーズとなった『文学賞メッタ斬り!』の巻末に毎回掲載されている各文学賞受賞作の採点法は、福田和也『作家の値うち』を踏襲したものである。
批評家があえて“書評”的にふるまう時に使った採点法を、書評家が再使用する。これは、“あえて”の二乗でメタ・メタなのか。それとも、メタが反転してベタなのか(一般読者の多くはベタに読んでいるだろうが、“批評”関係者はメタ・メタに受けとっている人がけっこういるのでは?)。
また、前田(批評)×豊崎(書評)では、三万字VS.三百字の対立図式になっていたが、例えば『メッタ斬り』では、二人のコメントが集積されて、現在の小説に関する状況全体をある程度、見渡せるように編集されている。三百字のコメントが100の媒体にバラバラに掲載されるのと1つにまとまっているのはやはり違うわけで、そのような書評の「三百字×100本=1冊」的な本が、批評の三万字の機能を代替しているかのごとき現状もある(逆に批評家が営業政策上、三万字の批評を三百字ずつに分けて編集し直す、批評を忌避しがちな読者にも呑みこみやすくする−−というような局面もある)。
このように“批評”と“書評”は、入り組んだ関係になっている。[宣伝ビジネスの要求に応じて書かれた紹介や書評の類と、本来の批評はどう違うのだろう。](笠井潔「批評をめぐる諸問題」。限界小説研究会『探偵小説のクリティカル・ターン』2008年所収)などと単純な問いを立てて「クリティック」と「コメンテイター」を対立させてみせ、「本来の批評」「クリティック」に軍配を上げて一件落着とする考えかたに、今さら意味があるとは思わない。
明日は、その先の議論が聞きたい。