「昭和の日」だった一昨日のこと。九段下にある昭和館、竹橋にある東京国立近代美術館の所蔵作品展がいずれも無料だったので、はしごしてきた。
まず、昭和館で特別企画展「手塚治虫の漫画の原点 戦争体験と描かれた戦争」(これも無料)を見てから、常設の「戦中・戦後のくらし」を回った。
戦争体験が手塚マンガ(そして、日本のマンガ)の記号表現にどのような影響を残したか――について、大塚英志は『アトムの命題』asin:4198616744などで繰り返し論じている。今回の企画展は、その手の議論に関心のある人には興味深いはず。
続いて、東京国立近代美術館まで歩き、所蔵作品展「近代日本の美術」へ。ここでは年代順にゾーニングされており、II−1「昭和戦前期の美術 都市のなかの芸術家」の説明書きに、こんな文章があった。
1923(大正12)年の関東大震災によって東京の街並みは一変し、都市の復興とともに人々の生活も近代化されていきました。こうした時代を反映するかのように、ヨーロッパの前衛美術などを独自の解釈で受容した村山知義は、都市生活の中にひそむ矛盾を断片的につむぎ出そうとしました。
このように近代美術館でも、地震や戦争といった災厄と前衛的表現(抽象化、記号化)との関係に着目し、ゾーニングがなされている。
したがって、時代も重なることだし、記号的表現の変遷という意味では、「近代日本の美術」の〝飛び地〟といった感覚で、昭和館の手塚展を鑑賞するのもいいのではないかと思った(後先が逆になってしまったが)。
http://www.showakan.go.jp/tokubetsukikaku/index.html
http://www.momat.go.jp/Honkan/permanent20070310.html
「リアルのためのフィクション」
近代美術館の所蔵作品展の一角で、「リアルのためのフィクション」と題し、4人のアーティストの作品を紹介する小企画展が催されていた。
http://www.momat.go.jp/Honkan/Fiction_for_the_Real/index.html
キュレイターの大谷省吾(東京国立近代美術館)は、パンフのなかでテーマについて、こう説明している。
彼女たちはみな、ある種のフィクション(虚構)をしつらえて、それを通して逆説的に、私たちに「リアル」なものの扉を開く鍵を示しているようにみえます。
ここでは言及されていないけれど、「リアルのためのフィクション」とは、早川書房がライトノベル系新世代作家のSFを「リアル・フィクション」と呼んだのに近いニュアンスだろう。
例えば、「リアルのためのフィクション」展において、やなぎみわの「案内嬢の部屋1F」は、赤い制服を着た案内嬢が空間にわらわらと大勢いる様子を大きな写真にしたもの。この複製人間ぶりは、いかにもSF的だ。
また、泥水を浴びるパフォーマンスをヴィデオに映した塩田千春の「BATHROOM」は、私のトラウマを探してみてください、と見る人を挑発するような雰囲気がある。
それらの(あえてする)記号的・図式的表現は、「リアル・フィクション」に通じる感覚ではないか。
ところで、美術館だから当然、展示室には監視員がいる。「リアルのためのフィクション」展でも、壁際に(きれいめの)若い女性が制服を着てパイプ椅子に座っていた。その役目からして、なにも喋らず、無表情で。
しかし、「案内嬢の部屋1F」がああいう内容なので、監視員の女性が、写真からこぼれ落ちたもう1人の「案内嬢」のように思えなくもない。オブジェというかパフォーマンスというか、ただの監視員が、作品コンセプトに沿った複製人間みたいに見えてしまう。こぼれ落ちたせいで、画面内と違う制服に変わったのだと解釈すれば、物語は成立するんだから(← 妄想)。
思わずそのような視線を向ける人は、僕以外にも何人かいて、監視嬢は微妙に居心地悪そうにしていた。どうも、すいません。