ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

映画『オペラ座の怪人』

THE PHANTOM OF THE OPE
ようやく、映画版『オペラ座の怪人ASIN:B0007D3NK4ができた。もともとアンドリュー・ロイド=ウェバーの舞台版からして視覚的要素を強く打ち出していたわけで、映画版のストーリーはほとんどその舞台版を踏襲している。なので、基本的に違和感は覚えなかった。細部についてはやはり、よく完成された舞台版に比べプラス・マイナス両面が感じられたものの、トータルで見れば映画化は成功だったと思う。以下に感想。

  • 疑問に思った点
    • エンド・テーマ的に用意された新曲〈ラーン・トゥ・ビー・ロンリー〉は蛇足だろう。主役級3人の誰でもなく、脇のカルロッタ役に歌わせている。しかも、“オペラ”とは縁遠い楽器であるアコギがバックで鳴っている。とってつけた印象は否めない。
    • オペラ座の怪人〉の曲後半でエレキ・ギターがうなるアレンジにやや違和感。バッハ的な速いキーボード・フレーズで盛り上げる舞台版の通常アレンジのほうがふさわしい。ファントムにロッカー的なニュアンスを与えたい作曲者ロイド=ウェバーの意図はわかる。とはいえ、地下でオルガン弾いてるのがこのダーク・ヒーローの伝統的イメージだ。この映画もそれを受け継いでるんだから、バッハっぽいほうがいいでしょ。
    • “その後の”老いたラウルの回想から物語が始まるのはいいとして、中盤、そして結末にまで“その後”を挿入して物語の“額縁”を強調したのはいかがなものか。額の中身である“物語が進行する現在”が終ったら、夢の覚めたみたいな“その後”なんて見せず、そのまま終ったほうが余韻に膨らみが出たと思う。
    • かつて、マダム・ジリーがファントムを助けたことがあったというエピソードが加えられた。だが、そうすると、ファントム−クリスティーヌ−ラウルの三角関係の力学で展開されるこの物語に、ジリー→ファントムの秘めた恋情ということまで想像されてしまう。それがちょっと“雑味”になった気も。
    • 仮面舞踏会のシーンを、モノトーン気味に撮ったのは物足りない。直後に「赤き死の仮面」の扮装で出現するファントムの“赤”を際立たせたい制作側の意図はわかる。しかし、モノトーン→赤という展開は、ちょっと安易では。ここは、仮面舞踏会のカラフルな華やかさの後に登場してもなお目立つ“赤”の異様さ――という風に演出すべきだろう。実際、舞台版は間合いなどで、そう印象づけているわけだし。
    • 話題になっている通り、戸田奈津子の訳はなんだかなぁ、って感じだった。
  • よかった点
    • 上記の通り、映画用にアレンジした部分に疑問が集中したが、チャンバラ・シーンや、ファントムの仕掛けから逃れようとするラウルなど、“映画興行”らしくサスペンスを強調した点は、納得して見た。そしてやっぱり、廃墟のオペラ座が蘇るオープニング、シャンデリアの落下シーンなどのスペクタクルに、素直に興奮させられた。衣裳、美術、CGを含めた視覚効果の作りこみも楽しませてくれた。
    • 映画サントラはフル・オーケストラになっているので、舞台版よりずっと厚みや奥行きがある。特に〈オーバーチュア〉や〈マスカレード〉にそれを感じた。
    • クリスティーヌのエミー・ロッサムの歌は、そりゃ舞台版初演のサラ・ブライトマンほどのスキルはないが、成長途中の娘らしさが柔らかく表れていて、役によくあっていた。ファントムのジェラルド・バトラーは発声、歌い回しともちょっと荒いかと思ったが、貴公子的なラウルとの対比でファントムの野性味を打ち出すのには、ありの表現である。クリスティーヌとカルロッタ、ファントムとラウル、それぞれ声質や歌い方の面でくっきり人物像が描き分けられ、メリハリがあったのがミュージカルとしてよかった。
    • ガストン・ルルーの原作は映像や舞台にあれこれアレンジされているが、この映画を見てあらためてロイド=ウェバー版の美点を再確認。暗い地下に住むファントムの行為を、ロイド=ウェバーは下方に向かう圧倒的なパワーとして描き出す。背景幕の落下、吊り下げられる死体、シャンデリアの落下、地下への連れ去り……。しかし、最後にラウルを襲う時だけは、吊り下げるのではなく逆に吊り上げようとするのである。この下方向から上方向へという視覚的転換に、ファントムの迷いがよく表現されている。
    • ファントムは鏡のなかに現れる。また、クリスティーヌがラウルとの再会を喜ぶ時も、彼が鏡に映ったのに気づいて振り向くという動作をへる。つまり、二人の男性に対するクリスティーヌの思いは、鏡を覗き込むナルシシズムの延長にあるのだ。よくよく考えてみれば彼女は、歌を教えてくれたファントムと劇場支配人になったラウルという、自分の成功につながる男とばかり接近しあう。しかも、ファントムには父親の面影を重ねている。彼女のなかではナルシシズム、上昇志向、愛の目覚め、近親相姦的感情などなどが未分化のまま渦巻いているのに本人はまるで自覚しておらず、結果としてえらく無垢に見える。それが周囲を惑わす。魅力的なヒロインの設定てのは、こういうもんだよねぇ。
    • 主題歌〈オペラ座の怪人〉は、80年代半ばの作曲を反映して、ややエレポップ的なアレンジになっている。この人工的な響きは、劇場のからくりを自在に操るファントムのサイボーグ性に通じている。ミッシェル・カルージュは、デュシャン「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」、カフカ流刑地にて」、ルーセルロクス・ソルス』、ポー「陥穽と振り子」などに出てくる機械的イメージに、独身者による自己完結的な性愛のニュアンスを嗅ぎつけた。その点、ロイド=ウェバー版『オペラ座の怪人』は、シャンデリア落下がまず絵的に「花嫁」や「流刑地にて」、「振り子」の機械性によく似ており、カルージュのいう『独身者の機械』の末裔になっている。オート・エロティシズムしか知らなかったファントムが、他者を認識させられた際に生じた悲劇――文学チックに語ると、ロイド=ウェバー版はそのようなものとしてある。

最後に戯言。今では歌も体つきも貫禄十分になったサラ・ブライトマンに、クリスティーヌではなく一度カルロッタ役をやらせてみたい、と思うのは僕だけでしょうか。本人は絶対断るだろうけど(いや、彼女の歌声は好きなんですよ、僕も)
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20041129