ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

「綾辻・有栖川のミステリ・ジョッキー」――(“DJ的”雑考 3)

(「ローレゾリューション論(仮)」のための覚書 5)(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 1)
(小説系雑誌つまみ食い 30――リニューアル後の「メフィスト」、「活字倶楽部」2008冬号)

メフィスト 2007年 09月号 [雑誌]

メフィスト 2007年 09月号 [雑誌]

ミステリ中心の小説誌「メフィスト」の2007年9月号に、渡邉大輔が、「自生する知と自壊する謎――森博嗣論」という原稿を寄せていた。これは、限界小説研究会による評論連載「ミステリに棲む悪魔(メフィスト)――メフィスト賞という『想像力』」の第1回として書かれたもの。
渡邉は、その「森博嗣論」の〔i「編集者化」するミステリ〕という見出しのつけられたパートで、こう述べている。

だが、一方で現在のメフィスト賞作家の多くが執拗に描くのは、いわばそのように事態を性急に言語化=全体化していくことではなく、膨大に存在する情報=痕跡の中からその時点で最も適当なものを手速くサンプリングし、次々に当て嵌めていく取捨選択と調整の技術である。

渡邉はここで、サンプリング/リミックス/カットアップといった「DJ」的技術で書かれたミステリについて考察していた。
一方、「メフィスト」はいったん休刊した後、昨年5月号でリニューアル新装刊したわけだが、その時から「綾辻行人有栖川有栖のミステリ・ジョッキー」という対談コーナーを連載している。これは、ラジオのディスク・ジョッキーを真似たスタイルで、曲をかけるかわりに短編小説をさしはさみ、2人の作家が本格ミステリについて語りあうというもの。
当然、渡邉が「DJ文化」的な見地からミステリに言及していた同じ号でも、綾辻と有栖川は“ディスク・ジョッキー”(DJ=パーソナリティ)を務めていた。「InterCommunication」64号の音楽/メディア特集で、「DJ文化」を論じた増田聡の論考と、ラジオ(・パーソナリティ)の「呼びかけメディア」性に着目した鈴木謙介の論考が同居していたのとよく似た光景が、「メフィスト」同号にもみられたわけだ。
メフィスト」2007年5月号の綾辻・有栖川連載第1回を読むと、ディスク・ジョッキーのスタイルを思いついたのは有栖川であるらしい。彼はこの対談コーナーの意図について、「活字倶楽部」2008冬号のインタヴューで話している。

活字倶楽部 2008年 03月号 [雑誌]

活字倶楽部 2008年 03月号 [雑誌]

その記事では、インタヴュアーのおーちようこと、次のようなやりとりをする場面がある。

有栖川 ミステリを好きな人たちに、楽しくほがらかに語ってほしいから。知識を競うとか、好みからはずれたものを頭ごなしに否定するとか、自分の物差しを押しつけるとかでは決してなく。これに関しては、自分を省みてのことでもあります。
――それは昨今の「本格論争」的なことに一石を投じたいということでしょうか……。
有栖川 そこまではいいませんが、もともとは単純にミステリはおもしろいもので、そこをわいわいと語りたい。こういうのが私はおもしろいと思うけど読んでみてどう? といった感想の交換をやりたかったんです。

有栖川は「ミステリを好きな人たちに、楽しくほがらかに語ってほしいから」と話しており、連載対談はただ綾辻と語り合うだけでなく、読者への「呼びかけ」も意識されている。有栖川は連載第1回の際に、「ラジオでは、自由にトークを進めて、その合間に音楽が流れますよね。あのリズムを利用したい」(「メフィスト」2007年5月号)とディスク・ジョッキー・スタイルの選択意図を説明していた。それだけでなく「呼びかけ」を意識している点でも、この対談企画はラジオ・パーソナリティ的に作られているわけだ。
一方、「活字倶楽部」のインタヴューでおーちようこが触れている「本格論争」とは、東野圭吾『容疑者Xの献身』の評価をめぐって始まった一連の論争をさす(この論争における有栖川の文章の要点は、千野帽子「批評のこと。」に引用されている。http://d.hatena.ne.jp/noririn414/20080119
有栖川は、おーちの問いに対し「そこまではいいませんが」と微妙な受け答えをしている。それについて、一石を投じるというほど大上段にふりかぶるわけではないものの、「本格論争」のことは意識している、視野には入れている――という意味だと自分は受けとった。
そして、複雑な思いを抱く。
有栖川は、「ミステリマガジン」2006年8月号の「赤い鳥の囀り」で、“探偵小説研究会”的な批評に対する不信を書いたといっていよい。「評論は、小説の前には立たない。立てないのだから」の一節に代表される彼の発言については、千街晶之(「崩壊後の風景をめぐる四つの断章」。「CRITICA」2号〔2007年〕所収http://www.geocities.co.jp/tanteishosetu_kenkyukai/critica.htm#02)、笠井潔(「批評をめぐる諸問題」。『探偵小説のクリティカル・ターン』〔2008年〕所収)asin:4523264694千野帽子(「批評のこと。」)らが批判している。
しかし、ふり返ってみると、笠井潔が編者となった作家論集『本格ミステリの現在』(1997年)において、千街晶之、濤岡寿子、田中博、佳多山大地、鷹城宏、巽昌章法月綸太郎など探偵小説研究会のメンバーと並んで、北村薫加納朋子といった実作者も作家論を寄せていた。有栖川有栖もその一人だったし、彼は「パンキー・ファントムに柩はいらない」と題した山口雅也論を寄せていた

本格ミステリの現在

本格ミステリの現在

有栖川の山口雅也論の書き出しはこうだ。

 ハロー、キッズ。
 ここFM・KAN−NONから今宵もお届けするロックとミステリのプログラム、『万歳(ロング・リヴ)ミステリ』。私はDJの南賀平次……じゃない、有栖川有栖。無理してトーキョー地方の言葉でしゃべるけれど、関西が入ってるのでお聞き苦しい点があればご容赦願いたい。

ご覧の通り、ディスク・ジョッキー仕立ての文章だったのである。
1998年に日本推理作家協会賞評論部門を受賞した『本格ミステリの現在』は、このジャンルの論じられかた、語られかたにおいて、一つの転換点を象徴していたといえる。しかし、「本格論争」以後、同書に参加した者たち(および周辺)の間で認識の差が顕在化し、新たな転換点を通過した。そして、探偵小説研究会を退会した笠井は、限界小説研究会の若手評論家たちとともにゼロ年代版“本格ミステリの現在”に相当する『探偵小説のクリティカル・ターン』を発刊。一方、有栖川は、綾辻と「メフィスト」の対談連載を始めた。
2つの転換点において、有栖川がいずれもラジオの“ディスク・ジョッキー”的な「呼びかけ」スタイルを選択したことは、たまたまなのかもしれないが、なにやら暗示的に感じられる。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20080122#p1


(*『本格ミステリの現在』には、夏来健次、武田信明という探偵小説研究会以外の評論家も参加していた。ちなみに円堂都司昭は、同書が発刊された時点でまだ探偵小説研究会に参加しておらず、ミステリに関する評論も書いていなかった。遠藤利明のほうは以前から、ミステリに限らず書評をロック雑誌に執筆することはあったけれど)。