ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

昨日の続き(「本格論争」、『本格ミステリ・ベスト10』)

(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 2)

昨年末刊行の『2008本格ミステリ・ベスト10』および『活字倶楽部』2008冬号の有栖川有栖インタヴュー、今年になってからの笠井潔千野帽子の批判など、その後も「本格論争」の余波はうかがえる。

評論は、小説の前には立たない。立てないのだから。


有栖川有栖「赤い鳥の囀り」(「ミステリマガジン」2006年8月号

この発言に対し、今さら自分がコメントするならば、次のような原理原則以上のことをいうつもりはない。
小説は書かれなければ読めないが、小説は読まれることによってはじめて“作品”と化す。読まれなければ、それはただの書いたものにすぎない。“作者”と“読者”は、対(つい)で成立する。
そして、小説に関する評論は、「“作者”―“読者”」の間で書かれる(例えば、自分は基本的に“読者”の立場で論じるが、作家が小説について語れば、それもまた“評論”になる)。どの立場に立つにせよ、「“作者”−“読者”」の関係性を意識しなければ、評論と呼べない。


次に、「赤い鳥の囀り」において有栖川が、「評論栄え」という言葉に示した嫌悪について。
彼は二階堂黎人による『容疑者Xの献身』批判&評論家批判について、その意図をこう推察していた。

「評論栄えがするものばかり持ち上げているのではないか。評論家の都合が評価の基軸になっていないのか」

そのうえで、有栖川は記していた。

評論家の目から見た名作、読者の目から見た名作、実作者の目から見た名作。それらが同時代的には併存しているのが文化の姿ではないのか。

普通に真っ当な見解である(加えて近年は、本屋の目から見た名作もある)。
「赤い鳥の囀り」では、誰がどのような文脈・場面で口にしたのか語られないまま、探偵小説研究会の某氏が「評論栄え」という言葉を口にしたとだけ書かれていた(こうした書きかたには疑問があるが)。
では、探小研の姿勢はどうなのか。
2008本格ミステリ・ベスト10
原書房刊『本格ミステリ・ベスト10』の編著者・探偵小説研究会の1人として、自分の見解を述べておく。
有栖川は「赤い鳥の囀り」で、自身が文庫解説を40本以上書いてきた経験から、〔「この本はカッコいい解説が書きやすくておいしい」「これは秀作だが解説の入る余地が乏しくてつらい」という区別はある。無論それは、作者や作品の価値とは無関係な評者の都合にすぎない〕と述べていた(例えば、この雑記帖で昨日引用した有栖川の山口雅也論は、「評者の都合」で選んだDJスタイルの文体が「カッコいい」。その点が評者本人だけでなく、読者にとっても「おいしい」のだ。あれは文庫解説ではなく作家論だったけど、理屈は同じ。パンクスの探偵を登場させる山口のロックなノリがあったから、そんな芸がやりやすくなる。つまり「評論栄え」のする作家なのだ、山口は)。
社会的関心事を扱っている/長大である/久しぶりの新作/実験的な手法が使われている/最新科学など特殊な知識が盛り込まれている――など、評価すべきポイントがはっきり見える作品のほうが、各種ベスト10の上位にランキングされやすく、語られやすい、論じられやすい傾向は確かにあるだろう。
しかし、自分はジャンルの1年をふり返る本を制作する側として、評価軸は複数用意されるほうが望ましいと考えてきた。
本格ミステリ・ベスト10』の場合、ランキング確定後、20位までの作品のレヴューが書かれる。だが、それ以前に、会員数名による年間回顧座談会が行われている。そのほか、何本かコラムを設けてもいるし、読者投票からのコメントも紹介する。実作者の声も、インタヴューやアンケートの形で掲載している。本全体でなるべく多くの作品を、なるべく多くの視点から取り上げるよう努めてきたわけだ。
例えば、いつものシリーズがいつものように楽しいユーモア・ミステリ短編集とか、特に統一テーマのない作品集などは、論じにくく「評論栄え」しないともいえる。だが、それらについても、「中短編集」に関するコラムで、作品に触れる場は用意するようにしてきた。
紙数やスケジュール、コストなどの制約はあるにせよ、書きやすいものばかりを書くのではなく、書きにくいものを書く手立てを考えるのが、プロの評者であり編著者だろう。自分はそうとらえている。


“ベスト10”本というと、とかくランキングの正否ばかり話題になるが、『このミステリーがすごい!』にせよ『本格ミステリ・ベスト10』にせよ、本全体では複数の尺度を用意しているものだ。
有栖川は〔評論家の目から見た名作、読者の目から見た名作、実作者の目から見た名作〕の「併存」を一種の理想状態として書いていた。それに対し複数の尺度を用意する“ベスト10”本は、本全体の構成としては、以前から有栖川のいうような理想状態を真似、それに近づこうとしてきたともいえる。
『このミス』における「バカミス」にしても、「評論栄え」に対するある種のカウンターとして機能していた時期はあっただろう(やがて「バカミス」自体も、一つの尺度になりすぎたけれど)。


とはいえ、残念ながら、探小研会員の全員が、『本格ミステリ・ベスト10』をただのランキングではなく、本の総体として活かそうと考えてきた――とはいえない。退会した笠井潔つずみ綾は違うし、『本格ミステリ・ベスト10』から手を引き『本格ミステリー・ワールド』を主戦場とするようになった小森健太朗も価値観が異なるだろう。
現在、『本格ミステリ・ベスト10』の編著に参加している会員にしても、見解は一枚岩ではない。“ベスト10”本にとって厳しい環境のなか、一枚岩でないことが、複数の尺度として活性化につながればいい――と思うが。


しかし、今回、「“DJ的”雑考」と付して始めたこのミニ・シリーズで、僕が1人のライター、評論家として語りたいのは、本当はもっとべつのこと(そんなに大げさなことではない)。それを語る前に、探小研の一員として書いておかねばならないことを、ここに書いたまで。だから、今日の記述には「“DJ的”雑考」と付記しなかった。
(数日中に、つづく)