ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

鈴木謙介「同期するメッセージ、空虚への呼びかけ」――(“DJ的”雑考 2)

(「ローレゾリューション論(仮)」のための覚書 4)

「InterCommunication」64号の音楽/メディア特集で、増田聡はこうも書いている。

DJ的な「作曲の時代」の支援ツールだったはずのものが、キャラクター志向的な想像力へと吸引されてしまう事態は、声という音響素材が、DJ的な「作曲の時代」の音楽実践の中でまだ確固としたポジションを与えられていない事実をもまた指し示している。われわれは歌声の背後に、歌う現実の身体を想像してしまう慣習から逃れられない。

「『作曲の時代』と初音ミク

増田は「声」の強さについて記しているわけだが、同誌同号には、またべつの観点から「声」に着目した論者がいた。鈴木謙介である。
鈴木は「同期するメッセージ、空虚への呼びかけ」という掲載原稿のなかで、「孤独」ではなく「孤立」を恐れさせるケータイ依存について触れている。そして、ケータイのような「同期メディア」は空気を読むことを要請するが、その裏側に「無理に空気を読まなくてもいいコミュニケーション」への欲求の高まりがあるのではないか、と指摘する。そのうえで、彼はこう語るのだ。

2006年から私は、「文化系トークラジオLife」という番組のパーソナリティを務めている。その内容とは別に、ラジオという音声メディアの現場にいて気づいたことがある。それは、ラジオが持つ「呼びかけのメディア」としての性格だ。

鈴木の見立てによると、ネットやケータイの場合、メッセージの届く範囲が決まっているために同期性が高まり、「空気読みか祭りか」に走りがちになる。ところが、ラジオを使ってパーソナリティとリスナーが「呼びかけ」あう構図は、双方とも相手にメッセージが届いたかどうか、すぐには確認できない。

音声メディアという場所にあって呼びかけあう人々は、その声に対するリアクションを得てはじめて、そこにコミュニケーションを見いだすことができるのである。

そんな、ゆるやかなコミュニケーションのありかたに、鈴木は「同期メディア」にはない可能性を見出そうとする。


増田のいう「DJ」とは、サンプリング/リミックス/カットアップして、雑多な音素材を“同期”させ音楽化する行為を指す。さらにフロアでは、その音楽に“同期”して客が踊るわけだ。
一方、鈴木のほうは、合間に曲をかけながらおしゃべりするラジオ・パーソナリティ=ディスクジョッキー(DJ)のことを述べている。彼は増田とはまた違う道筋をたどって、やはり「声」の強さを見出している。


増田は音楽について語り、鈴木はコミュニケーションについて語っている。テーマが違うゆえに、前者は「声」への注目に否定的、後者は肯定的な態度をとっている。とはいえ、両者の議論をミックスしたところに見えてくるものもあるように思う。
鈴木の論考に初音ミクは登場しないが、彼の観点と増田の観点を組み合わせて初音ミクを考えると面白い。
初音ミクは、ニコニコ動画でウケた。動画の再生の途中にコメントを付けられるニコニコ動画は、同期メディアの一つであり、そこに「DJ」的ツールである音声合成ソフトが歓迎されたのだ。
しかし、一方、初音ミクは、非「DJ」的な(「パーソナリティ」的とでもいうべきか。早い話が“キャラ”ってことだが)「歌う」存在であり、「声」の存在である。ならば、ひょっとするとミクの動画をアップする者は、自分自身が「呼びかけ」るのはためらわれるので、ミクに「呼びかけ」を代行してもらった――初音ミクは「呼びかけ」のパロディみたいなもの――という図式になるのではないか。
つまり、初音ミクは、「DJ文化」と「キャラクター志向」の狭間にいるだけでなく、「同期メディア」と「呼びかけメディア」の中間(かなり「同期メディア」寄りではあるけれど)にいるのかもしれない。
(たぶん、つづく)

文化系トークラジオLife

文化系トークラジオLife

(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20080120#p1