ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

増田聡「『作曲の時代』と初音ミク」――(“DJ的”雑考 1)

(「ローレゾリューション論(仮)」のための覚書 3)

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 04月号 [雑誌]

Inter Communication (インターコミュニケーション) 2008年 04月号 [雑誌]

上の雑誌に増田聡が「『作曲の時代』と初音ミク」という論考を寄せている。そこで彼は、初音ミクの開発者の意識と、実際の受け入れられかたのズレについて、次のように整理している。

つまり、開発者の困惑とは、DJ文化的な作曲実践の支援(あらゆる音をユーザーに自由にコントロールさせる目的)のために送り出したはずの製品が、オタク的なキャラクター志向的想像力を満足させるための二次創作環境の用途に「流用」されてしまったことに起因するわけだ。

実は、これとどこか似た状況整理を、増田は『その音楽の〈作者〉とは誰か リミックス・産業・著作権asin:4622071258(2005年)という象徴的な題名の本に記していた。

しかし一九九〇年代半ば以降のクラブ・ミュージックの大衆化と主流のポップ音楽への浸透は、新ジャンルの生成/忘却のサイクルを加速させ、ポストモダン論が祝福した「能動的聴取者」だったはずのDJを、死んだはずのロマン主義的な「作者」のポジションへと祭り上げている。

「DJ文化」は本来、「作者」の“主体性”やら演者の“キャラ”やらを解体するはずなのに、クラブ・ミュージック史は結局それらを復活させた。また、初音ミクも、「DJ文化」であるよりは“キャラ”として受け入れられたというわけだ。


そういうことを考えると、電気グルーヴの存在は面白い。
石野卓球は日本のテクノの開拓者であり、「DJ文化」を代表する存在だ。ソロ・アーティストとしては、シリアスにテクノをやってきた。
ところが電気グルーヴでの卓球は、ピエール瀧という、かぶりものでは目立つものの“音楽”面の貢献はまるでないパートナーと一緒になり、おバカなキャラを演じる。「DJ文化」なトラック+“キャラ”でできているのが、電気グルーヴなのだ。
「DJ文化」な音楽に対してさえも、客の側がどうしてもその背後に「作者」や“キャラ”を欲するならば、先回りして露悪的に演じてしまおうという図式。
つまり電気グルーヴは、自意識のある初音ミクみたいな存在か……と書くと、瀧が初音ミクのコスプレしてる姿が想像されて気持ち悪い……(笑)。
(まぁ、「人生」という、名前からして“キャラ”の立っていたバンドで出発した卓球としては、自分の音楽がテクノ化したからといって、今さら“匿名”性でやれないしという意識があって、それでやぶれかぶれの“キャラ”遊びを選択したのかもしれないが)
祝新作発表。

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そういえば、ダンスフロアではどちらを向いて踊ってもいいはずなのに、それでも客はDJのほうを向きがちだ――と笑いながら語っていたのは、電気グルーヴの卓球か瀧だったと記憶するのだけれど、出典が見当たらない……。違ってたら、すまん。
(たぶん、つづく)
増田聡 関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050324#p1
(「InterCommunication」64号 関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20080312

  • 24日夜の献立
    • 豚肉とレンコンのソテー(塩、こしょう、オリーブオイル、ローズマリー、玉ねぎのみじん切り、赤ワイン、プルーン、ケチャップ、ソース)
    • 小松菜と水菜のおひたし(青じそポン酢)
    • ほうれん草の味噌汁
    • 玄米ごはん