谷口基『変格探偵小説入門 奇想の遺産』を読んでいて、ふと思ったことがある。戦前の様々な変格探偵小説や、それに類する文学を論じた同書では、映画や双眼鏡などかつては新奇だったテクノロジーと小説との関係を論じた部分がある。
上記↑の文庫本にも収録されている谷崎潤一郎「人面疽」ではある女優に関し、本人には撮られた記憶のない映画が、アンダーグラウンドで上映されている。その内容は、肌の腫物が人の顔となる人面疽の怪奇談だった。
谷口は特に指摘していないが、谷崎の同作では、スクリーンに人間の姿が投影され生きているように動く映画の不思議さと、肌がスクリーンになったように人の顔を浮かび上がらせる人面疽の怪異が重ねあわされているといえる。
一方、江戸川乱歩「押絵と旅する男」では、双眼鏡越しに見て一目ぼれした女が押絵の中の存在だったと知り、自らも押絵になる男が語られる。谷口は同作をめぐり、双眼鏡が昔は軍事テクノロジーにかかわる道具だったことを述べる。
こちらも『変格探偵小説入門』の文脈から離れて自由に連想を広げるなら、押絵の女という虚構の立体感&ヴァーチャル・アイドル性は、現代に置き換えれば、初音ミクの3D映像に惚れた男が自身もその映像の一員と化すようなものだろう。
同様に「人面疽」的な怪異も今様にアップデートできる。例えば、Perfumeのライヴのごとく人体に映したプロジェクション・マッピングが、そのまま肌の上で肉質化してしまう、あるいは、3Dプリンタで形成された人の顔が命を得て喋りだす−−といったぐあいに。
以上のように考えると、視覚をめぐる当時のテクノロジーを背景に創作された「人面疽」、「押絵と旅する男」には、現在にまでつながる人の想像力、欲望のありかたを見出せる。それらを、渡邉大輔『イメージの進行形』でいうところの「映像圏」の考えかたでとらえ直すことも可能かもしれない。
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