ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

近藤史恵『二人道成寺』

二人道成寺 (本格ミステリ・マスターズ)
最近はめったに行けないのだけれど、一時期、歌舞伎をよく見た。銀座に勤めていた頃(もう10年くらい前か)には、会社を出てから歌舞伎座で一演目だけ幕見席で楽しんで帰る、なんてこともできたから。
何度も見ていれば、お気に入りの役者ができる。「○○屋!」という例のかけ声を、自分も発してみたいと思う。でも、芝居のどのタイミングで言えばいいのか、本当にむつかしい。主要な登場人物がずらりと舞台に並んだ時に、「○○屋!」、「○○屋!」と次々に声がかかったりするが、どの役者からどういう順番で言う決まりになっているのか、これも素人にはどうもわからない。
でも、そんな僕でも声をかけることができた演目があった。「藤娘」と「京鹿子娘道成寺」である。
歌舞伎というのは、芝居の始まりと終わりの両方で、拍子木が鳴らされる。
……ヵ、ヵ、ヵ、ヵ、ヵ、ヵ、ヵ、キッ!
が幕開けの音だとすると、
キッ! ヵ、ヵ、ヵ、ヵ、ヵ、ヵ、ヵ……
で、幕が閉まっていく。
「藤娘」の場合、キッ! と柝の音が鳴ると、暗かった舞台がとたんにピカッと光り、ど真ん中にヒロインが一人で立っている。芝居の途中でなく、最初の「キッ!」のタイミングさえとらえればいいのだから、初心者でも声をかけやすい。
逆に「京鹿子娘道成寺(きょうかのこむすめどうじょうじ)」だと、終わりを狙う。ヒロインが中央に置かれた鐘に登ってポーズを決めれば、終わりの柝の音が鳴る(ミステリ・ファンなら横溝正史『獄門島』の鐘を思い出すかも)。この瞬間が狙い目。ヒロイン以外にも坊主どもが大勢舞台に立っているけど、彼らはその他大勢なので、ヒロインの屋号だけを思い浮かべて音声化すればいい。
このようにして僕は、二演目で二回だけ、同じ屋号を声にした。
「京屋!」。
人間国宝で、高齢ながら妖艶な女形中村雀右衛門さんのことである。そして、近藤史恵は『二人道成寺』の巻末インタビューで、歌舞伎ミステリ・シリーズに登場する女形、菊花については、雀右衛門さんを思い浮かべていると語っているのだった。
(前ふりが長すぎましたね)
今泉文吾が探偵役をつとめるシリーズの最新作『二人道成寺』を読んで、また歌舞伎を見に行きたくなった。火事の後遺症で意識不明が続く、梨園の妻をめぐる物語。彼女を挟んで、二人の女形に微妙な確執があるらしい。そして、今泉が火事の原因を探ることになるのだが、シリーズ前作『桜姫』ISBN:4048733362、いかにも本格ミステリ風の大どんでん返しになるわけではない。むしろ、恋するものたちの意外な心理を抉った、ひねりのある恋愛小説として読んだほうが、楽しみを引き出せるだろう。
義母が息子に横恋慕し、毒を呑ませて失明させることで許婚と別れさせようとする「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」(略称「合邦」。僕は、故尾上梅幸の晩年の凄まじい演技で覚えている)。許婚の男が別の女と恋していることを理解して田舎娘が自ら身を引く「新版歌祭文(しんばんうたざいもん)」(通称「野崎村」。こちらは歌舞伎より文楽のほうが印象に残ってます)。許婚が出てくる三角関係の話なのは同じだが、熟女の妄執ぶりが恐ろしい「合邦」と、青春劇ともいえる「野崎村」では、かなりテイストが違う。
『二人道成寺』では作中の三角関係に、これらテイストの異なる二演目のイメージを重ねる。そして、重ねられた二つのイメージのぶれによって、恋するものたちの心の揺れを語っていく。この「揺れ」ぐあいが、恋愛小説としてけっこういい雰囲気になっていると思う。
題名になった『二人道成寺』は、「京鹿子娘道成寺」をアレンジした演目のこと。オリジナルは一人の女形が次々に衣裳を変えつつ、いろんな振りをして見せるところに妙味がある。これに対し「二人道成寺」は、二人が出てきてシンクロで同じ振りをしたり、交互に踊ったりするのだという。僕はまだ見たことがないが、この場合、終わりの「キッ!」が鳴った瞬間、二人のどちらから声をかけるべしとか、やっぱり決まりがあるんだろうな。僕がうかつに声をかけちゃいけない演目であることだけは、確かですね。
(関連雑記 http://d.hatena.ne.jp/ending/20040918