ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

《フランツ・フェルディナンド》

Franz Ferdinand
フランツ・フェルディナンドのメンバーは影響を受けたアーティストとして、ものすごくたくさんの名前を上げているが、バンド名を冠したこのファースト・アルバムからまず連想するのは、前期のトーキング・ヘッズ。そして、初期のロキシー・ミュージック、ニューウェイヴに接近した頃のデヴィッド・ボウイ、パルプあたりか。ギャグっぽく引きつってみせるヴォーカルやギターのフレーズ、ロックとディスコを折衷したみたいなリズム。いずれもストレートな鳴らしかたではなく、ちょっと斜にかまえている。こういうのが、昔から好きなのだ、僕は。マッチョ的な肉体性よりも、アートスクールっぽいひねくれた感性が。その場合、アートっぽさを調味料にしたポップなのか、ポップっぽさを調味料にしたアートなのかで微妙な差があるけれど、フランツ・フェルディナンドの場合、いまのところ前者に感じられる。つまり、ポップが主。僕の場合、あの、どう考えてもベタでヘナチョコなギター・フレーズなのに、耳に残って離れなくなる〈テイク・ミー・アウト〉に、まず負けた。
このバンドには、アートスクール臭とともに、70年代末〜80年代のニューウェイヴみたいな感覚もある。パンク・ムーヴメント後の時期に、パンク的な肉体性やストレートさとどのように距離を置くかが、ニューウェイヴの一つの課題だったわけだが、フランツ・フェルディナンドにもそれに近い響きがある。というか、絶対影響を受けている。
日本では今年、小野島大企画でニューウェイヴのCDがシリーズ発売されたりして、あの頃の音を聞き直す機会ができた。これを業界の仕掛けと呼ぶ人も多いけれど、僕は意味のある仕掛けだと思ってる。以前にも書いたことがあるが、陽性パンクだのロックンロール・リヴァイヴァルだの、ストレートな肉体性ばかりがロックの伝統芸として幅をきかせる現状はもの足りない。特に、“放課後”的なパンクばかりが目立つ日本では、ニューウェイヴみたいな“パンク後”の感覚が注入される必要がある(あと、ここ数年の80年代ブームではMTV的なキラキラした曲たちが多くコンピされたが、そうした商業的楽曲の裏で試されていた実験性を発掘する意義が、一連のニューウェイヴCD発売にはあったはず。これで80年代のシーンを立体的に振り返れるようになった)。
このようにニューウェイヴを聞き直しやすくなった状況で、その末裔であるフランツ・フェルディナンドが日本デビューしたってのも、なかなか絶妙のタイミングではないか。ぜひ、ファンを順調に増やして欲しい。ただし、パンク的なストレートさに対するアーティスティックな批評的意識を音にするにしても、批評の質が80年代のリヴァイヴァルにとどまっていては、ロックンロール・リヴァイヴァルと大差ないレベルに終ることになってしまう。そこらへんは、一歩でも二歩でも前進していってもらいたい。真の勝負は二枚目だ。久しぶりに入れ込みたくなった新人バンドなので、要求度も高いのである。

  • 今晩の献立
    • 煮物−−鳥むね肉(ももより安いので節約)、干ししいたけ、たけのこ水煮、ごぼう、にんじんを、サラダ油で炒めてから、だし汁、しょうゆ、みりん、砂糖、酒で煮る。
    • 大根の葉をゴマ油と豆板醤少々で炒め、ポン酢。
    • にらの味噌汁に玉落とし(黄味は半熟をやや越えたくらい。こういう季節なので固め)
    • 麦入りごはん