ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

ジョニー・ラモーン死去、『エンド・オブ・ザ・センチュリー』

ジョニー・ラモーンが死去した。ついさっき、音楽系編集者から電話で聞いた。ネットで検索したら、やっぱりニュースになっている。ガンだったそうだ。驚いている。だって昨日、ラモーンズドキュメンタリー映画『エンド・オブ・ザ・センチュリー』の試写会に行ったばかりなんだもの。
映画の方は、バンド結成からジョーイ・ラモーンの死、そして「ロックの殿堂」入りまでを、メンバーや関係者の証言を交えて振り返っている。デビー・ハリーやグレン・マトロックといった同時代人が出演しているだけでなく、サーストン・ムーア、ラーズ・フレデリクセン、ジョン・フルシアンテ、カーク・ハメットなど後続世代も登場してラモーンズへのリスペクトを表明する。
もちろんライヴの場面も、断片的ではあるけどたくさん出てくる。こうしてまとめて聞くと、グリーン・デイ登場頃から現在に至るパンクの流行には、セックス・ピストルズやクラッシュよりラモーンズの方が影響を与えていると実感する。かつてのロンドン・パンクの政治性とか、パティ・スミステレヴィジョンみたいなNYパンクの文学性とかは結局、ロックにおいては“付加価値”にすぎなかったと思い知らされる。要するに、タメないビートで、感情をタメずにせかせか速く演奏するのがパンクなのだ。それをラモーンズ以上にシンプルかつストレートにやれたバンドはいない。しかも、フィフティーズ的な甘みのあるメロディでやったのだ。このわかりやすさこそが受け継がれ、今の日本の放課後パンクにまで流れ込んでいる。
マチュア時代から末期まで、何種類も出てくるライヴ映像は、そのほとんどが「ワン、ツー、スリー、フォー!」、ジャジャジャジャジャジャジャジャっつう曲のスタート部分が使われている。カウントからバンドがいっせいに走り出す瞬間が、とにかくかっこいい。監督がスタート部分ばかり選んで編集した気持ちがよくわかる。曲自体のテンポが違っても冒頭のカウントは同じテンポに聞こえるとか、何曲演奏しても全曲〈電撃バップ(ブリッツクリーグ・バップ)〉に聞こえるとか思わないでもない。でも、あのカウントからのスタートは、何度聞いてもゾクゾクした。パンクにあまり思い入れのない僕ですら、しびれた。
でも、スタジオ盤では当然、カウントの声なんて録音されてなくて、すぐに演奏から始まる(ほとんどの曲は)。だから、家に帰って《ラモーンズの激情》を聞き直したら、ちょっともの足りなく感じた。
映画では、最後に出てくるカウントの場面が、印象に残った。死せるジョーイ・ラモーンの名が、CBGB近くのストリートにつけられることになり、その標識の除幕式でみんなの声が「ワン、ツー、スリー」。これがパンクのステージでのせっかちなカウントとはまるで違って、いかにも公共行事的な「いち、にぃ、さぁん」の間延びしたタイム感。あぁ、ジョーイが真ん中に立ってライヴすることはもうないんだなと、ちょっと哀しい気持ちにさせた。監督がライヴ・シーンでやたらとカウントの声を拾ったのは、除幕式のこの場面を対照的に見せるための伏線だったわけだね。
映画はジョーイ・ラモーン、そして「殿堂」入り後間もなく死んだディーディー・ラモーン、さらに本作出演が最期のインタヴューになったジョー・ストラマーの3人に捧げられている。加えて今度は、ジョニー・ラモーンまで死んでしまった。これで余計に「追悼」色が濃くなってしまうけど、なにしろ本人たちがいくら自分たちは暗いバンドだと思っていても(そう証言している)、外からは素っ頓狂で愉快な連中に見えてしまうラモーンズである。笑える場面もたくさんある。キャラの立ったヤツらのツアーに同行しているような臨場感を味わうつもりで、気軽に見たってべつにいいと思う。(11月シネセゾン渋谷でレイトロードショー)