ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

菊地成孔とオレンジレンジ

『CDは株券ではない』

『CDは株券ではない』ISBN:4835615638、Jポップシングルのレヴュー集としては、面白かった。ただし、語り口はべつに新しくない。
著者の菊地は前書きで、

我が国の「流行歌〜歌謡曲」を俎上に乗せ、それを「評論」する。と称して、多く社会風俗と自分の人生観を絡めたエセーを良い湯加減で書く。という行為ほど気持ちよくそして空疎なものはない。

などと既成の音楽評論、J−POP批評を揶揄する。けれど、本文を読めば菊地自身も、社会風俗、自分の人生観、サブカルチュア、業界事情など、非音楽的なことがらへの言及は排除していない。というか、やたら「僕は」「僕は」と本人が顔を覗かせてしゃべり口調を繰り出すその文章は、そこで批評されている曲以上に騒々しく耳元に聞こえてくるかのよう。そうして〔良い湯加減〕に自分を押し出しつつ手持ちの教養で語るのは、サブカルなレヴューの常套でしょう。
菊地の得意な音楽理論は講義する時のいい素材にはなっても、読者との知識の共有を前提にできない一般向けレヴューでは、直接的には振り回せない。その欠落を穴埋めするには、どうしたってサブカル流儀の比率を上げるしかなかった。ってことだろう。
そして僕は、この本で菊地の〔良い湯加減〕を、芸として楽しんだのでした。

オレンジレンジと沖縄

『CDは株券ではない』のレヴューが対象にした2003〜2005年で目立ってブレイクしたアーティストに、オレンジレンジがいる。本の中でも繰り返し彼らのことが出てくるが、菊地は〈ロコローション〉を例にとり、引用が1曲からではなく合わせ技で行われていることを評価している。
また、菊地のオレンジレンジ評価には、もう一つポイントがある。

本土からの視線による、癒しのアニミズム島扱いにノーを唱えたんだ。

すごくアメリカっぽい音楽でしょ? それは、まるっきり沖縄出身であるそぶりを見せないことも含めて、結果として本土に対するある種の批評になっているんじゃないかと思うんだ。

こうした菊地の見立てについて、大筋では同意できる。でも、本の視野からは、オレンジレンジの初期の代表曲〈上海ハニー〉がこぼれ落ちている。この曲の途中には、「ハァイィヤァ、ハッ、ハッ、ハッ」と沖縄民謡のコーラスが引用されている。その引用部分は、かつてYMOが〈Abusolute Ego Dance〉ASIN:B00007KKZ3民謡と同じ部分だった。
また、最近のシングル〈キズナASIN:B000A2FMP6たが、通常のポップスと沖縄っぽさをつなげる作曲法には、THE BOOMを思わせるものがあった。さらにこの曲では、三線だけでなく中国発祥の胡弓も用いられていた。そんな風に複数の民俗音楽を並列することは、坂本龍一がよくやっていること。
本土のアーティストが沖縄っぽさを取り扱う際の手口を、逆に沖縄出身であるオレンジレンジがなぞっている――僕には、そんな風に受け取れる。
しかも彼らは、アルバムを出すたびに、フェイクの異国情緒を含んだ曲を入れている。外からみると、地元の伝統を背負っているわけでもない彼らには、フェイクの異国情緒と沖縄っぽさは同格であるように思える。
ここには、「本土に対するある種の批評」が、結果的に成立している。と、とらえることができる。

『その音楽の〈作者〉とは誰か』

先の〈上海ハニー〉に話を戻すと、オレンジレンジはYMOから沖縄民謡の部分を引用した、というよりも〔引用する〕という手法自体を引用している。菊地が本で評した〈ビバ★ロック〉には、KISS〈ラヴ・ガン〉ASIN:B00006HBBA入されていた。このフレーズも、コーネリアスが〈ムーン・ウォーク〉に引用したのとちょうど同じフレーズだ。〈ビバ★ロック〉でも〔引用〕が引用されているわけ。こうしてみると、オレンジレンジの引用は、単純な図式に収まらないのではないか。
また、オレンジレンジ批判派がネタ元としてあげる中に、B’Zみたいにそれ自体がパクリといわれてきたものまであったのには驚いた。オレンジレンジのネタ元とされる曲のオリジナル性が、必ずしも高いとはいえないのではないか。例えば、ネタ元の一つとしてクイーン〈バック・チャット〉ASIN:B000803F0Oたが、この曲を田原俊彦の〈シャワーな気分〉(筒美京平作曲)ASIN:B00005FPU3ので、こっちの方がネタ元かもしれない。というか、クイーンの曲自体、JAPAN〈果てしなき反抗〉とリフが似ていると指摘されていたのだ。いろいろ追求すると、最初に想定した“ネタ元のオリジナル性”が、どんどん曖昧になっていく。
増田聡『その音楽の〈作者〉とは誰か』ISBN:4622071258時、僕は、昨今の著作権問題絡みでこの種の問題を論じるのは意味があるにしても、リミックスやサンプリングはもう旬の話題ではないんだから文化論的な意義は今あるのかなぁ、と考えていた。けれど、オレンジレンジ批判派があまりにも安易に“パクリ−オリジナル”の図式を持ち出し、このバンドに対してだけ過度に倫理的に振舞う姿をみると、『その音楽の〈作者〉とは誰か』というテーマをあらためて掘り下げる意味はある気がしてくる。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050324#p1

それにしてもオレンジレンジをパクッたと騒がれたハレンチ☆パンチって……ルックスはともかく喋りが……。ASIN:B000A6TP32

《南米のエリザベス・テイラー

南米のエリザベス・テーラー(DVD付)
菊地成孔の《南米のエリザベス・テイラー》はべつにむつかしくはなくて、ちょっと変わったムード・ミュージックってなノリで聞けるものだった。
日本人がエキゾチック・ジャズを演奏したこのアルバムを、菊地は《南米のエリザベス・テイラー》と名づけ、わざわざ仏訳したちょいと詩的なテキストをつけ、かつて“渋谷系のフレンチ・ロリータ”(懐かしいですか?)みたいなイメージだったカヒミ・カリィASIN:B0000088VLングしたのだった(彼女は菊地の以前の作品にも参加していた)。《南米のエリザベス・テイラー》は、タイトル通りフェイクなテイストが全編を覆っている。
ラストの〈南米のエリザベス・テイラーの歌〉では、菊地が作詞して自ら歌っている。「エリザベス・テイラー」と呼ばれた映画女優が南米、アジア、北欧、アフリカの各地域にいた、「エリザベス・テイラー」を引用したみたいな女優が、世界のあちこちで悲劇に陥ったと彼は夢想する。そして菊地は歌う。一番可哀想なのは北米の本物だ、と。
地域、引用、本物性に関するこの屈折した感覚は、菊地のオレンジレンジ評価と背中合わせの関係にある。音楽の高度さ云々はべつにして、菊地成孔はアーティストとして否応なく、オレンジレンジと同種のテーマを共有してしまっているってこと。
このアルバムには、〈ホルヘ・ルイス・ボルヘス〉と題したインストがある。南米、映画ネタ、文学といったら、ボルヘスよりマヌエル・プイグISBN:408760151X。けれど菊地がボルヘスの名を持ってきたのは、この小説家が“テキストにとって〈作者〉とは誰か”というメタなテーマを描いていたから――と見立てることが可能だろう。
例えば、『伝奇集』ISBN:4003279212「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」。これは、セルバンテスに代わって『ドン・キホーテ』そのものの作者になろうとする男の小話であり、北米以外に「エリザベス・テイラー」がいたとする菊地のコンセプトと交差する。そこでは、オリジナル性=特権性が揺さぶられている。――ジャズであるだけに、スウィングしなけりゃ意味ないね、ってところでしょうか。

  • 6日夜の献立
    • さわらの塩焼き
    • 大根の葉、ごぼう、にんじん、じゃがいもの味噌汁
    • きゅうり、大根、ミニトマトのサラダ(シークワーサードレッシング)
    • おくら&納豆
    • 玄米1:白米1のごはん