ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

佐藤良明『ラバーソウルの弾みかた ビートルズと60年代文化のゆくえ』

(「クロ(ック)ニクル/レヴュー」第3回 2004.6.2記)
ラバーソウルの弾みかた ビートルズと60年代文化のゆくえ (平凡社ライブラリー)
60年代カルチャーに関する文章には、二種類ある。重点を67年におくか、68年におくか。ビートルズなら、レノンが〈ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ〉(LSD)を歌ったのが67年、〈レボルーション〉(革命)が68年。知覚の変容を夢見たサイケデリック・ブームの67年、反政府的な学生運動が各国で盛り上がった68年――年表的には、そう整理できる。意識変容と社会変革、どちらに興味があるか、だ。そして、G・ベイトソンの翻訳やJ-POP論で知られる佐藤良明のこの60年代論は、67年のインパクトを語ろうとしたものだった。
89年7月に岩波書店から刊行された『ラバーソウルの弾みかた』を、私は当時面白く読んだ。けれど、今年出たこの増補新版で約15年ぶりに通読し直し、複雑な気分になった。
ビートルズに代表される60年代カルチャーを、佐藤は「ユメとウソ」と呼ぶ。「ユメとマジ」の政治運動に比べ、ロックンロールには「ウソ」っこの「ごっこ」性があったという。適切な要約だと思う。また、動くものが動かない「囲い」を破るのが「トリップ」で、それが60年代の歓喜だった、とも。60年代が後に与えた影響を、佐藤は二重に語る。一つは、社会のアンチだったカルチャーが、経済の変化をうながしたとする解釈だ。モノ中心の重工業から気分の資本主義へ弾み始めたのは、動くもの=ムードや感覚が経済に取り込まれたからだと批判する。その一方で、サイケを「ポスト・ヒューマン・マインド」への脱皮ととらえる。ハイテク・メディア革命を含む精神系の進化の一歩だった、と。
経済やメディア環境とカルチャーに連動性があることには、同意する。でもやはり、89年の評論だ。今の日本は、本書が書かれたバブル期とは違って資本主義は弾んでいない。精神系への傾斜は後に、オウム事件を生みもした。この新版は、バブル後、オウム後の風景にまで対応した増補がない点が物足りない。
とはいえ、読むべきところはある。佐藤は、感覚やムードが全体で移る様子、「時」の変化を記そうとした。ロック、文学、映画の具体名が多く登場するのに、それら以上に「僕ら」全体の変化に関心があるため、話が抽象的イメージに傾く場面が少なくない。だが、とらえがたいのになお手を伸ばしてつかもうとする書きぶりにこそ、独特の迫真性がある。
このとらえがたさは、ケータイ・ネット空間を飛び交う言葉自体についてではなく、それらを成り立たせる空気をとらえようとした時の難しさに近い。ケータイの浸透以前に書かれた本書には、〔最近になって僕らは、テレフォンという、それ自体はけっこう古い装置を、一種の自己濾過装置として使い出している。電話を通した彼とわたしは、「浄化」された彼とわたしだ。〕と今でも通用する文章がある。このような「浄化」で作られる共同性について書くこと。佐藤には、そんなある種の集合無意識のその後について続編を求めたい。