ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

四方田犬彦『ハイスクール1968』

(「クロ(ック)ニクル/レヴュー」第2回 2004.5.25記)
ハイスクール1968
映画、小説、漫画の評論で知られる四方田犬彦が、1968年の入学から、72年の大学合格まで、高校時代を振り返った本である。若者による反政府運動が各国で盛り上がり、ロックやフォークなどのユースカルチャーが勢力を拡大した時代であった。そんな風潮は、日本も例外ではなかった。賢い部類だった四方田少年は、純文学、現代詩、思想、ロック、ジャズ、雑誌、漫画などにおける同時代の先端を貪欲に吸収していく。
現在では、ロックはロック年表、ジャズはジャズ年表にと別々に整理される事項が、一人の少年のなかでつながりあったものとして、ジャンル横断的に語られる。伝統とカウンターの境目が混沌とし始めていた当時のカルチャーが発していた熱。少年の皮膚感覚を通して、その熱が描かれる。渋谷、新宿の映画館やジャズ喫茶について書いた部分などから、街を歩き回る少年の肉体が浮かぶ。行間から伝わる少年の体温が、当時のユースカルチャーに寄せられていた願望の質を語っている。
しかし、本書には地に足が着かないで空回りする感覚も漂う。囲いのなかで堂々巡りしている印象が残るのだ。本書が、どこか閉鎖した性格を感じさせるのは、主人公が、都内の附属中からエスカレーター式に高校進学したのも一因だろう。でも、それ以上に時代性が大きい。本書では、友人たちが起こしたバリケード封鎖が回想の要点になる。封鎖を知った四方田は、持久戦のために自宅から食糧を仕入れてくる。ところが高校の現場に戻ると、すでに封鎖は解かれていた。非日常的な反抗に対する彼の期待は、宙に浮いてしまう。
69年1月には東大安田講堂で籠城事件が起きた。これをきっかけに全国の高校でバリケード封鎖が相次いだ。だが、幼い政治行動が、まともな対外交渉を実現できるわけもなく、立てこもりました、封鎖が解かれましたということの繰り返しだった。三島由紀夫自衛隊駐屯地で切腹した事件(70年11月)と連合赤軍あさま山荘事件(72年2月)。本書でも時代の重要なエピソードとして触れられるこの二つの事件こそ、立てこもりという60年代的な行為の終着点だった。
興味深く思ったのは、封鎖事件後の空虚な気分をまぎらわせるため、四方田らがビートルズを真似て屋上コンサートを決行したこと。スタジオワークに専念していたビートルズは、不和から崩壊に向かった。その過程で彼らは、アップル本社屋上で無許可のまま久しぶりのライヴ演奏をする(69年1月30日)。宙に浮いた彼らの演奏を、人々は別のビルや地上など、離れた場所で聞くしかなかった。
聞く者との距離が遠ざかってしまった時、理想を掲げる者は、囲いのなかに立てこもって虚空に演説するしかなくなってしまう――《レット・イット・ビー》(70年発表)に収録された屋上ライヴは、結果的に、そんな60年代的な立てこもり劇の象徴的表現になっていたのだと、本書を読んで気づいた。