ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

映画『イージー・ライダー』

(「クロ(ック)ニクル/レヴュー」第4回 2004.7.13記)
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ハーレーダビッドソンに、〈ワイルドで行こう〉である。ハンドルが後方にぐぐぐっと伸びた独特なフォルムのハーレーは、ライダーが寝そべり気味の、かなり傲慢に見える姿勢で運転する。それに乗ったフォンダとホッパーがブルルン! とエンジンを鳴らせば、ディストーション・ギターをバックに「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」と歌うテーマ曲が流れ出す。ステッペンウルフの名曲。映画を見ていなくても、主演二人がバイクに乗った写真は有名だし、〈ワイルドで行こう〉もTVで流れる機会は多い。ロック&ドラッグを取り上げたことでは先駆的な映画――なんて説明まで思い浮かぶかもしれない。そして、ごついハーレーや「ワイルド」という言葉から、暴力的な若者を主人公にした威勢のいいお話だと想像する。――見る前は私もそうだった。
ところが、実際は正反対。マリファナを売った金で、二人がバイクで旅に出る。しかし、わくわくする冒険など、どこにもない。都市から離れて若者たちが集団生活を行うコミューンを訪れると、倦怠感におおわれている。警官には髪が長いだけでうさん臭く思われ、とっつかまる。その留置場で友だちになった酔っ払い弁護士(ジャック・ニコルソン)は、野宿の間にそこらの住民に撲殺された。ドラッグをやってもトリップはなんだかバッドだし、田舎の食堂では客たちから白い目でみられて逃げ出す。最後には若者二人は、普通の中年男たちにあっけなく銃殺されてしまう。他のアメリカン・ニュー・シネマだと、見せ場としての「若者の反抗」があってから、「死の美学」にたどり着く。なのにこの映画には、かっこいい「反抗」も死の「美学」もない。
フォンダ演じる主人公は、劇中で「キャプテン・アメリカ」と呼ばれる。つまり彼は、アメリカの「自由」を新世代として象徴するキャラクターなのだが、あの国の保守性による暴力で惨殺されるのだ。ロック&ドラッグを軸に描かれる若者の夢想理想と、アメリカ的な現実との落差。とかく、夢想理想の部分ばかりが語られる映画だが、むしろ現実との落差をえげつなく語った点に価値があるし、60年代の結末に関する先見性があった。
サントラにはジミ・ヘンドリクスの曲が含まれているが、彼もウッドストック(69年)で国歌をあんな風に演奏したことで、新世代の「自由」を象徴する一人になった。そのジミも、間もなく自滅していった。『イージー・ライダー』のサントラには、ステッペンウルフやジミのハードロック、バーズのサイケ、“民謡”ではないニュー・フォークなど、「自由」を求めた当時の音楽の冒険が収録されている。だが、ロック映画だと思って聞くと、土臭いカントリー調の曲が多くて驚く。そうしたなかでは、フォークまでが“民謡”に引き戻されそうになっているみたいに感じられる。サントラにアメリカの保守性の磁力が及んでいるのだ、悲しいことに。死の前に流れるロジャー・マッギンによるディランのカヴァーなど、磁力から逃れようと必死にあがくみたいな歌で、異様な緊迫感がある。
そして、「自由」のプラカードを振り回すアメリカは、今でも保守的で土臭い。