ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

村上龍『69 sixty nine』

(「クロ(ック)ニクル/レヴュー」第5回 2004.9.3記)
69(シクスティナイン) (集英社文庫)
 映画化に伴い、そのポスターのデザインを流用した文庫新装版が出回っている。クリームの2nd《カラフル・クリーム》のサイケなジャケットをアレンジした表紙である。これを機会に久しぶりに読み返したが、後味はよくない。刊行当時、この小説は村上龍では“下”の部類だと思ったが、今回、“下の下”までさらに評価は下がった。
 作者自身の高校時代を素材にした自伝的青春小説である。1969年は、東大安田講堂での籠城事件が呼び水となり、高校でもバリケード封鎖が流行った年だった。主人公のケンはお調子者なうえ、文学、ロック、美術などの動向をそれなりに追っていたため、口が達者だった。そんな彼は目立ちたいモテたいという欲求の延長線上で、べつに政治的な信念もないくせに適当な学生運動用語を振り回して仲間を説得し、バリ封を敢行してしまう……。
 この小説は発表当時、学生運動世代の批評家からウケがよかった。だが、彼ら『69』支持派が自分たちの過去を懐かしがるその空気に、私は違和感があった。
 村上龍は、一人称で語り手をつとめるケンを、コミカルな存在として書く。「というのは嘘で」という冗談を繰り返し、ところどころ唐突に文字をデカくするなど、ギャグ性を強調した内容。でも、笑えない。大江健三郎が『ピンチランナー調書』で「ha、ha」と作者自ら笑い声を書きこんだのに読者が笑えなかったのと同じくらい、わざとらしい書きぶりに思える。ところが、支持派は見方が違う。村上は過去の自分をセンチメンタルにではなく、滑稽に記している。距離がとれている――そう解釈したいらしい。
 しかし、私には、過去の自分をコミカルに演出する村上の書きかたは、「距離がとれている」と主張したいがためのアリバイ工作としかとらえられなかった。なぜか? (基本的には)高校生の一人称として書かれている地の文章の途中に、[何かを強制されている個人や集団を見ると、ただそれだけで不快になるのだ。]などと“論評”する文章がちらほら挿入されるからだ。これは高校生の語り口ではない。作家として成功し“大人”になった村上が、小市民的社会を評論家的に攻撃するエッセイを書く際によく使う文体である。
 つまり『69』は、――過去の自分を冷静に観察できる自分は、現在、攻撃的に論評できる能力がある。昔、楽しく反抗した自分は、今でも楽しく反抗し続けている。昔はバカで今はリコウになったけど、反抗にかけては一貫しているぞ――と自己主張しているみたいに見えるのだ。そんな小説に、学生運動世代の評論家が自分たちの姿を重ね合わせて支持した。だから、「反抗」に関して自分たちは昔も今も特別な位置にいる――とあからさまに言いたがっている彼ら世代に、私は嫌悪感を覚えた。そういうことだ。べつに反抗するのはかまわないけれど、自分たちばかりを特別視するなよ、と。
 そして、今回の映画化に伴うあちこちの取材で、村上は自分を特権化する態度をまたもや繰り返していた。これには、ウンザリした。
(関連雑記 http://d.hatena.ne.jp/ending/20040729