- 最近自分が書いたもの
- 「ライヴ・エイドという頂点――クイーンとメッセージ性」 → 「ロックジェット VOL.19」(特集クイーン Beautiful! シンコーミュージック発行)ISBN:4401619161
上記雑誌には、斎藤環インタヴュー(「クイーンが好きであるからには、屈折しているはずなんですよ」)が載っていて、クイーン・ファン(特にジョン・ディーコンの)としての自分を実に無防備に語っている。斎藤は、フレディ・マーキュリーにトラウマは感じないと断言までしているのだ。精神科医がTVにコメンテーターとして登場し、会ってもいない容疑者について、あたかも診断するみたいな発言をする風潮はいかがなものか。診断には面談が必要不可欠だろうに――と、精神科医斎藤環はどこかで批判してませんでしたっけ?(笑) フレディはこのように、彼について語る人をおっちょこちょいにする。そこが面白い。
フレディという人は、インタヴューでは「自分は傷つきやすい人間だ」と繰り返し語っていた。なのに、精神科医にまで、トラウマ=心的外傷はないと言われてしまう。そんなキャラなのだ。これについて、クイーン・ファンの多くは、なるほどフレディにはトラウマなさそうだよなぁ、と納得しそうな気がする。僕だって納得する。本人がいくら「自分は傷つきやすい」といっても、周囲はまるで信じない。それこそがフレディの抱えたエンタテイナーとしての、道化師としての“人徳”だったとも思える(だから、HIV感染者となり現に傷つきつつあった自分を反映した《ザ・ミラクル》、《イニュエンドウ》を聞き直すと、フレディにしては珍しく“私小説”的に響く曲があって、微妙な気持ちにさせられる)。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20040730)
さて、クイーン特集のインタヴューでは楽しそうに好き放題喋っていた斎藤だが、『文学の徴候』以降、バッシング続きって印象である。確かにこの本は、あらかじめ用意した解読図式(「病因論的ドライブ」など)に、論評対象である作家一人一人をはめ込みすぎる傾向はある。また、いつものことだけど、ラカン系、現代思想系の小難しい精神分析用語を使うのを、もう少し控えて欲しいとも思う。でも、“純文学雑誌界隈”でひきこもり自足するのではなく、外部世界と同時進行していくものとして小説を語ろうとするスタイルは、最近ではあまりないチャレンジではないか。
ここ数10年の文芸評論の流れを無視したみたいな無造作な語り方(中上健次への言及部分とか)や、“純文学雑誌界隈”に精神分析みたいな外部から解読図式を持ち込んだあたりに既成の文学支持者が反発するのは、まぁ無理はない。でも、それって、ホリエモンに対して、“旧価値観”支持者が示す反応とまるで一緒じゃん。なんだかなぁ。
その意味では、斎藤環を応援したい気もあるのです。
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