ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

ザ・フォーク・クルセダーズ、北山修/自切俳人

「ロック画報」16号が、ザ・フォーク・クルセダーズ(以下フォークル)を特集している。気合の入った内容で、未発表ライヴ収録のCDまで付いている。
同号には、メンバーだった加藤和彦きたやまおさむ北山修)の回顧インタヴューが掲載されている。そういえば、「ミュージック・マガジン」6月号のアーリー80’S特集でも、加藤はインタヴューされていた。そっちでは、80年前後に発表した欧風ソロ三部作が主な話題だった(《ベル・エキセントリック》は愛聴しました)。しかし、ブライアン・フェリーに通じる貴族趣味(あくまでフェイクでやる面白さだけど)の欧風美学で彩られた三部作と、アングラ・フォークと呼ばれた60年代後半のフォークルとではまったく色合いが違う。加えて、欧風三部作とフォークルの間には、「グラム・ロックフュージョンの萌芽」的なサディスティック・ミカ・バンドの活動があったのだから、加藤和彦の音楽性の振幅はやはり尋常ではなかった。「ミュージック・マガジン」と「ロック画報」、それぞれのインタヴューの射程範囲の差に、加藤の才能を再確認させられた。
フォークルの〈帰って来たヨッパライ〉がヒットした67〜68年の頃、僕はまだ幼稚園児だった。テープの回転スピードを操作したあの変な歌声と、死んだヨッパライが神さまに説教されて天国から追放されるコミカルな詞は、子どもにもインパクトが強かった。幼稚園でみんなが、あの歌を真似していた思い出がある。でも、当時のフォークルについて、この歌以外の記憶はないし、その後もベスト盤と2002年収録の再結成ライヴ盤を聞いたくらいで、よいリスナーではない。けれど、「ロック画報」の特集を手引きに、もう少し聞いてみようかという気分になっている。


「ロック画報」の特集には、詳細なディスコグラフィーがあるが、著作についてはほとんど触れていない。でも、僕にとってフォークルは、音というより活字だった。フォークルというより、北山修といったほうがいいかもしれないが。
中学から高校にかけて(70年代後半)、文庫本のエッセイを古本屋で買い漁っていて、北山修(『戦争を知らない子供たち』、『止まらない回転木馬』など)や寺山修司庄司薫などの著作に出会った。60年代(というより70年前後と書くほうが正確か)のカリスマたちの本が文庫化された後、古本屋店頭の安物を売る台(というか、これで売れなきゃ捨てますって台)に並ぶ――それを買ったのだから、僕とフォークルがいた時代とは、かなり時間的(感覚的)なへだたりがあった。だから、中坊の僕は新鮮に感じたのだろう。そして、60年代後半〜70年代前半に発売禁止・放送禁止になった歌の詞集を古本屋で見つけ、フォークルの〈イムジン河〉、頭脳警察の〈銃をとれ〉なども、サウンド抜きでまず歌詞を知ったのだった。
で、あれこれ買い続けるうち、北山の『人形遊び 複製人形論序説』(現在入手難か)にたどり着いた。この本では、ビートルズの話題を中心に、複製自動人形としてのメディア・スターが考察されていた。僕は、ベンヤミン的な複製芸術の概念に触れたのはこれが初めてだった。また、自分で評論的な文章を書くうえでは、同書からけっこう影響を受けたと思う。
フォークル解散後に精神科医になった北山は、『人形遊び』出版と前後する時期に、自切俳人(じきるはいど)の変名でラジオの深夜放送のパーソナリティをしたり、音楽活動をしたりしていた(変名の初期には正体を隠していた)。「ジキル博士とハイド氏」だなんて多重人格の代表的キャラから名前をいただくあたり、いかにも精神科医らしい遊びである。僕は自切俳人の「オールナイトニッポン」はよく聞いていた。北山は、「自切俳人」というメディア上の複製人形を演じることで、自分のメディア論を自分で人体実験していたわけ(同番組は当時、タモリ所ジョージなどが違う曜日のパーソナリティだったと思う)。
学者としての北山は、ウィニコットの研究で知られている。ウィニコットとは、香山リカ大塚英志が時々言及する「移行対象論」を言い出した人。そういえば、香山は、リカちゃん人形の名前を名乗り、わざと嘘くさいメガネをかけてテレビ出演や文筆などのタレント活動をしている。これは香山流の“人形遊び”だろうし、北山による自切俳人ごっこの再演にもみえる。ウィニコットやメディア論をテーマにした北山と香山の対談とか、読んでみたい気がする(それとも、どこかですでに実現しているのかな?)。
(追記:香山が北山に相談に乗ってもらったことはあるらしい。http://www.p-eyes.com/04_0104kayama.html
幻滅論
北山修精神分析系統の本には、『錯覚と脱錯覚』、『幻滅論』という書名がある。ジョン・レノンビートルズ時代の喧騒から抜け出したソロ第一作で〔ドリーム・イズ・オーヴァー〕と歌ったが(〈GOD〉)、僕は北山の語る「脱錯覚」、「幻滅」はジョンのそのフレーズや思いを、精神分析の場で考察するために選んだ概念ととらえている。60年代ユース・カルチャーにあった“夢々しさ”からいかに目覚めるかが、ジョン・レノン北山修に共通する隠しテーマだったのだ、と。それはまた、フォークルの〔ドリーム・イズ・オーヴァー〕を考えることでもあったと思う。