ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

『ディズニーランド・ストーリー』

昨日、WOWOWで『ディズニーランド・ストーリー』と題されたモノクロ映像を見た。これは本家ディズニーランドがちょうど建設中だった1954年に撮られたもので、故ウォルト・ディズニー自身があのテーマパークの構想を語ると同時に、それとタイアップしたTV番組の放送予定を告知していた。日本初公開の映像だという。
ちょっと不思議な感覚だった。僕たちはディズニーランドに続いてディズニーワールドも建設され、このテーマパークのコンセプトが外国にまで輸出されたことを知っている。ディズニーシーみたいに、輸出先で“応用編”が作られたことだってよく知っている。だが、映像のなかで自分の夢を子どもに向かってやさしく説明する態度をとっているウォルトは、実は、同時に世間に対し自社の事業計画をプレゼンしていたわけでもある。この時点での彼は、まだ自分の計画の大成功を知らない。穏やかな表情で語ってはいるが緊張していただろうな、と想像してしまう。なんだか、「大丈夫だよ、あなたの事業は歓迎されるよ」と声をかけたくなった。
しかし、映像を見ていて、ゾッとする場面があった。彼は、完成予想図や模型を用いてテーマパークの説明をする。そしてカメラが、よくできたミニチュア・ディズニーランドの敷地内からのアングルになった時、空の位置にウォルトがにゅうっと巨大な体を現したのだ。まるで、屋根の向こうに突如ゴジラが現れたみたいなショック! このテーマパークのコピーである東京ディズニーランドまで、僕の家から自転車で15分程度なのだ。だから、あの夢の国には“うちの裏山”的な地元意識を持っているし、自分の町に巨人が攻めてきたかのような嫌な感じを一瞬覚えた。
ディズニーランドは、マクドナルドやスターバックスと並んで、人間を取り巻いて支配するある種のシステムの比喩としてよく使われる。一方、ゴジラは核のおぞましさを象徴的に実体化して見せたものだった。で、「ディズニーランド化(ディズニーランダイゼーション)」などと呼ばれる現象が各地にさんざん飛び火した現在から、過去の映像に登場したディズニーランドを支配する巨人を目撃すると、まるでゴジラと同様の象徴的実体化がそこでなされているかのごとく、錯覚してしまうところがある。現在の「ディズニーランド化」総体の背後に潜んでいる何人もの思惑、複雑に絡まりあった事情のあれこれを、怪物の形に単純化し象徴的に表現したものとして、そこに巨人が出現した――そんな、まるで歴史的推移の転倒した感覚に陥りそうになる。
ウォルトというたった1人の子ども大人が夢を抱いたことが“出発点”だったのに、巨人に見えるウォルトに、「ディズニーランド化」の“結果”に関する象徴的表現が読み取れてしまう。はじめにあったウォルトの夢の個人性が、今では「ディズニーランド化」システムに変貌して広がりを見せ、ある種の権力となって巨大化しているからこそ、そんな錯覚が生じる余地もあるのだ。

Walt Disney―伝記・映像の魔術師

Walt Disney―伝記・映像の魔術師

(今日の雑記は、ある種の気味悪さを強調しようとするあまり、強迫観念めいた書きかたになりすぎているな)