昨日、第3回文学フリマに行った。第1回の時は、西尾維新、佐藤友哉、舞城王太郎、太田克史参加の同人誌『タンデムローターの方法論』を購入し、並んでユヤタンのサインをもらうなんてこともしたけれど、第2回は行かなかった。で、第3回は、青山ブックセンター本店のイベントスペースから場所を移し、秋葉原での開催になった。ABCからおたくの街アキハバラへ、というところに複雑な思いを抱いたりもするが、イベントが継続されたこと自体は歓迎したい。
とりあえず、手に入れたものを記す。今はバタバタしているので、合間をみて読めたものについては、そのたびに感想を追加できればと思う(当面、時間的に難しいかもしんないけど)。
「Mighty Bomb Jack version.1」、「同 version.2」
森田真功――「最果てにて――佐藤友哉『「世界」の終わり』について」第一回/第二回、「『ドリルホール・イン・マイ・ブレイン』論」(「ファウストVol.1」ISBN:4061795538城王太郎短編についての評)、「壊れた世界に君の声が響き渡る――西尾維新『きみとぼくの壊れた世界』について」
「他者=世界」のなかから出られない僕と世界の関係を、ゼロの波の作品に読み込んでいる。自殺したカート・コバーン(ニルヴァーナ)とゼロゼロ世代の心性に共通性をみてとるあたり、グランジを聞いてから「ファウスト」を読んだ者としては興味深い。ただし、佐藤論は完結しておらず、舞城論も簡易版とのことで、議論が途中で終っている。近い時期にまとまったものを読ませてください。
「CONRAD vol.1」
「作家達の夢束」
「早大文学 22-23合併号」
小田光雄・永江朗・和田敦彦「変容する『読者』溶解する『読書』――それにしてもいったい誰が『読者』なのか――」(2002年11月28日)
大塚は、ゲームのノベライズのように、工場のラインで車を溶接するノリで文章を生産する「ブルーカラー的な書き手」の必要を説く。一方、永江は、「Cut」の宮嵜編集長(元気してる?)と喋った時にCDデッキの普及が渋谷系音楽を生んだという話題になったことに触れつつ、「ブックオフから新しい文学が生まれるのかもしれない」と語る。そして、ブックオフ文学を感じさせる作家として、舞城王太郎と乙一の名をあげている。別の場、別の文脈で出てきた大塚、永江それぞれの発言だが、奇妙に響きあっている印象がある。
舞城や乙一は、今の若手作家では個性ある存在と認知されており、「ブルーカラー的な書き手」とは思われていないだろう。でも、舞城は清涼院流水〈JDCシリーズ〉へのトリビュート『九十九十九』ISBN:406182306X、乙一もコミック『ジョジョの奇妙な冒険・第四部』のノベライズを執筆中だという。二人とも、大塚言うところの「ブルーカラー的な」仕事への抵抗感は、意外とないのかもしれない。
「ブルーカラー的な書き手」と「ブックオフ文学」。いずれも、たまたま思いつきが口からこぼれただけって感じの言葉ではある。けれど、それぞれの指示範囲を生真面目に考えたうえで、二つの用語をぶつけてみれば、それなりに興味深い風景が描けそうな気もするのだ。(12月12日追記)
「東京アジール」
(都市、郊外、地方に関する小批評集)