ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

小説誌のネット論議

ファミレスとコンビニとインターネットを潰せばニートは一掃できる。

「文学界」4月号 ISBN:B000EQ4FNS底討議「ネット時代と溶解する資本主義」で、東浩紀がそんな冗談を発していた。ははは。そうかもしんない。
でも、東、鹿島茂佐藤優松原隆一郎の4人による討議は、立ち位置がかなり異なるメンバーにホリエモン、監視社会、小泉構造改革2ちゃんねるなど雑多な話題を語らせていて、とりとめのない床屋政談的な印象になっているのは否めない。
東出席のネット関連座談会なら、『ネット社会の未来像』第1章のほうが、まだまとまりがある。

動物化」と監視社会の奇妙な関係――と題された第1章では、自身が用いる「動物化」なる言葉に関し、東は「社会性がなくなる」ことと同義と説明。

私たちの社会は、ファミレスやコンビニからはじまって、ITにいたるまで、他者とのコミュニケーションがなくても社会活動を営まれるようにするシステムを大量につくっている。そこでは、皮肉なことに、「コミュニケーションの快適さ」でさえコミュニケーション抜きに提供されるようになってきている。

動物化の状況を描写し、コミュニケーション抜きの“コミュニケーション”の例としてソーシャル・ネットワーキング・サービスもあげていた。
一方、「小説トリッパー」春季号が、「ネットから遠く離れて」という特集を組んでいる。そのなかの大塚英志インタビュー「セカンドチャンスとしての近代をいかに生きるか」では、ネットでの「私語り」流行を、明治の近代文学私小説――の大衆化した再演ととらえていた。そして大塚は、

ぼくが言っている公共性は、「個」を出発点にして、交渉してそのつどできあがる「暫定的な公共性」であり、その成立に向けて交渉することばのことです。

と、自分の望む言葉の「更新」のありかたを主張する。
動物化」−コミュニケーション抜きの“コミュニケーション”という東流の現実把握と、「個」−「公共性」をめぐる大塚流の愚直な理想――2つのセットは、「個人の問題−コミュニケーションの問題」という構図によって対応している。でも、「動物化」と「個」、“コミュニケーション”と「公共性」――言葉の意味のギャップには、なんだかクラクラする。このクラクラに、現在の問題があるわけだ。他者に向かうはずの欲望が、「公共性」ではなく擬似“コミュニケーション”に回収されてしまうこと。それこそが、「個」ではなく「動物」であるってことかもしれんが。

(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050317#p1

  • 22日夜の献立
    • 骨付きチキンのトマト煮込み(マッシュルーム、玉ねぎ、にんじん、アスパラガス。ハーブ塩、オリーブオイル、にんにく、バター。ベイリーフ
    • 麦、きびを混ぜた白米のごはん