「本格ミステリ・マスターズ」から出た奥泉光『モーダルな事象 桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活』、読了。ある童話作家の遺稿をめぐる、けったいな話だった。「駄洒落大辞典」の編纂に注力したという春狂亭猫介、僕は好きである。
太宰治(小説家)
「あっちから、ダサイおさむらいが来るよ」「ほう、さよう(斜陽)ですか」
続けて「群像」10月号ISBN:B000B5UQSU、奥泉光+北村薫+法月綸太郎の座談会「小説内リアリズムと読みの多義性」を読む。奥泉、北村の新刊の話題が中心。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050830#p1)
座談会で奥泉は、「終らない小説」への願望を述べつつ、「一般論として、ミステリーは再読できないという弱点があるといわれますよね」と定番の話題に触れている。そして奥泉は、北村薫『ニッポン硬貨の謎』の記述を踏まえつつ、手の込んだ仕組み自体を読むことにおいて「ミステリーもまた終らないものとして読める可能性があるんじゃないか」と語っている。
僕は、ミステリと再読の問題についてシンプルに考えている。
ミステリを読み進めることのなかに、あらかじめ再読が含まれている。
起きてしまった事件の裏にあったことを、あらためて掘り起こすのがミステリ。まず、話の基本構造自体が、事件の“読み直し”としてできている。
またミステリは、伏線を張ったうえで謎解きを披露する。ゆえに読者は、あの件についてどのように書かれていただろうか――と伏線を確かめるため、前半をめくり返すことが多いだろう。たとえ実際にめくり返さなくても、前半に書かれていたことを頭の中で思い出し、読み直そうとしている。小説の後半を読んでいる時点で働いている前半への意識は、通常の小説よりミステリのほうが強いはずだ。
つまり、実際そうするか頭の中だけでそうするかはともかく、ページの先に進みながら、前半を再読せざるをえない構造になっているのがミステリなのだ。初読の時でさえ、そこにはすでに“再読”的なものが含まれている。
たとえ読者自身が積極的に再読の感覚を持たなくても、物語の重要人物である名探偵が、事件を“再読”する人として存在している。ということは、“再読”を読むのがミステリ体験ともいえる。それは、イコール「仕組み自体を読む」ことにつながるわけで、メタ小説(“小説を書く”/“小説を読む”ことを読む/書く)の書き手である奥泉が、ミステリに親近性を示すのも当たり前である。