ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

西尾維新『ニンギョウがニンギョウ』

結末に触れているので、読む前にご承知を……

ニンギョウがニンギョウ (講談社ノベルス)
ファウスト」ではなく「メフィスト」に掲載された短編を集めた本だが、いっそのこと「群像」に載せればよかったのに、と思うような文学っぽさがある。「ファンタジー小説」って名称でライトノベルを並べる本屋があるけれど、そのニュアンスでの「ファンタジー小説」ではなく、「幻想小説」って漢字の感じ。舞城王太郎がよくやる“幻覚妄想”的展開を、西尾流にやってみせたものとも思える。
二十三人も妹のいる「私」が主人公。十七番目の妹がまたまた死んでしまったので、「私」は映画を見に行かなければならない……。ひとり死ぬごとに繰り上げ当選みたいになって次々に死ぬのではなく、毎度毎度同じ十七番目の妹が死ぬんだそうな。この発端からして思いっきり変だが、『撲殺天使ドクロちゃん』; ISBN:4840231435インメント世界を生きる人々にとって、人間が何回死のうがノー・プロブレム――かと思ったんだけれど、『ニンギョウがニンギョウ』に批判的な西尾ファンは、以外と多いようだ。特別な造本で価格設定が高めなせいもあるが、内容自体について「意味不明」、「わけわかんない」との声を目にする。
連作短編の各話で、「私」はいろんな場所をさまよい歩く。そこで風景がグニャグニャ変容するし、超現実的なことがルール性を感じさせぬまま次々に起きるので、どんな世界なのか把握しにくい。主人公を複数の女の子が取り巻く図式は、『きみとぼくの壊れた世界ISBN:4061823426るが、あちらはどんな世界がどんな壊れかたをするのか、主人公がその世界をどう維持しようとするか、読者にみえていた。しかし、『ニンギョウがニンギョウ』では、世界や主人公の輪郭が鮮明でない。
展開が行き当たりばったりだったり意味不明だったりしても、その話になんとなく安定性を担保することはできる。作品世界の“支配者”あるいは“起源”が、どこかにいる/あると、ほのめかし続ければいいのだ。人類にとって“神”に相当する高次元の知性的存在がいることを暗示した『2001年宇宙の旅』、肥大した母性的存在で地球全体を覆って見せた映画版『新世紀エヴァンゲリオン』。“支配者”=“神”、“起源”=“母性”のイメージは、この世界には根拠がある――という感覚をそれとなく与える。
きみとぼくの壊れた世界』の結末では、壊れかけた世界を「ぼく」が無理して引き受けることで維持した。「ぼく」は、“支配者”=“神”的ポジションを代行しようとしたのだ。だが、『ニンギョウがニンギョウ』の「私」は、そんなポジションは引き受けないし、どうも態度がはっきりしない。
「私」には二十三人も妹がいるわけだが、考えてみれば妹とは通常、「私」の出現よりも後に生まれた存在を意味する。この小説で奇妙なのは、なぜか「私」より年上の妹が存在し、一番目の妹にいたっては老婆であること。その老婆は、「私」の知らないことをいろいろ知っているらしい。そんな彼女は、通常の小説ならば“支配者”や“起源”に関連するキャラクターとなって、「この世界には根拠がある」という感覚を与えるのに役立ってくれるはずだ。ところが老婆は、あくまでも「私」より後に発生したことを意味する“妹”と位置づけられており、世界の根拠づけの役にはまるで立たない。
また、この小説では、お兄様である「私」が人体交換屋にて、なぜか子供を産む。しかし、べつに「私」が“母性”に目覚めるでもなく、その場で「熊の少女」に赤子を渡す。赤子を育ててくれると約束した「熊の少女」のことを、「私」は二十四番目の妹ではないかと疑う。これが連作最後のエピソードとなる。
もし、「熊の少女」が妹であれば、彼女もまた「私」より後に発生した存在であり、結局、この世界はすべて「私」が生み出したものだったとの解釈が成り立つ。第一話『ニンギョウのタマシイ』で映画を見に行って帰ってきた後、[私の家は映画館だった]とオチがつけられていた。このことは、「私」の周りには、スクリーンに映るような実態のない幻影しかない−−と暗示していたのではないか。つまり、彼こそが世界の根拠、“支配者”=“神”だった。世界は「私」の反映でしかなかった――と、「熊の少女」=妹の場合には解釈する余地がある。
また、実は「熊の少女」は「私」の母だったとのオチであれば、新たに“起源”が発見されたことになり、「私」のいる世界の根拠を見つけたことになる。そういう結末もありえただろう。
なのに、「熊の少女」が[わたしは貴方の、お姉ちゃん]と明かして、いきなり物語は終ってしまうのである。姉は「私」より先に出現したにしても、「私」を産んだわけではない。姉、「私」、妹では、時間がちょっと前後するだけの相対的な位置関係でしかない。
なんなんだろう、この気持ち悪い読み心地は……。
ただ一つ思うのは、「ファンタジー小説」(広い意味で「戯言シリーズ」や「新本格魔法少女りすかシリーズ」も該当するだろう)が、たいてい“支配者”や“起源”をめぐる設定を用意したうえでお話を展開するのに対し、ここで西尾が異なる感触の「幻想小説」を書いたこと。それによって、『ニンギョウがニンギョウ』は興味深い作品になったと思う。僕はこの気持ち悪さを、けっこう面白く読んだ。
(作中要素の解釈は、読後すぐ思い浮かんだことを走り書きしただけ。読み込めばもう少しべつなことも言えそうな気はする)
西尾維新関連本ISBN:4791701240−−僕も寄稿してました)