ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

阿部和重『グランド・フィナーレ』(ついでに村上龍『ラブ&ポップ』)

阿部和重芥川賞受賞記念ということで……。


「群像」2004年12月号に掲載された『グランド・フィナーレ』の主人公はロリコン男。奈良の女児誘拐殺害事件の話題がまだ消え去らない最中、こんな作品が芥川賞候補になるとは、時宜を得ていると申しましょうかなんというか(容疑者は阿部と同じ1968年生まれだったりする)。
シンセミアISBN:402257870Xコン警官を登場させていたし、作者にとってこの性癖は自家薬籠中のもの。大作を書き上げた余勢を駆り、後日談を仕立てた印象だ。『シンセミア』1,600枚中のロリコン警官=中山正は友だち思いの面を垣間見せつつも、悪人ばかりが惜しげもなく大量に登場する過剰な同作のなかでは、やはりダーティーさが目立っていた。それに対し、220枚の『グランド・フィナーレ』は、ろくでもない男による“ちょっといい話”――的にまとめられている。阿部のエンタテイナーぶりが出た作品としては、お手ごろ感や時事性において『ニッポニアニッポンISBN:4101377243う(『グランド・フィナーレ』には『ニッポニアニッポン』の“テロリスト”少年の妹も登場する)。
ロリコン男(「わたし」=沢見)が実の娘までをそういう被写体としていたことが妻にばれ、離婚される。彼は郷里(『シンセミア』の舞台でもあった神町)に戻るが、過去に教育映画の仕事をしていたことがきっかけで、仲良し小学生コンビに芝居を教える成り行きになる。その少女2人が、自殺マニュアルのサイトを覗いていたのを目撃し、男の心が彼女たちの死ぬのを阻止しようとする方向に傾くところで物語は終幕を迎える。『グランド・フィナーレ』は改心の話なのだ、一応は。
かつて少女たちの画像を膨大にデジタルデータで所有していた男は、離婚後は家族から法的に遠ざけられ、データも手放す。今では、友人に撮ってもらった携帯の画像1枚でしか、愛する娘を見つめることのできない境遇。このデータ量の大幅減少こそが、ロリコン男の悲哀を表す。
しかし、郷里で少女たちの自殺を止めようとする時はどうか。彼は少女たちへのクリスマス・プレゼントに、2羽のセキセイインコを用意する。人みたいにおしゃべりするよう、彼女たちがインコに話しかけてくれることを願って。デジタルデータの保存・再生に執着していた男が、小鳥による人の言葉の習得・反復という、ぬくもりのある“再生”を夢想し始める。ここらへん、悪人が人間性を取り戻す“ちょっといい話”的に読める。
実の娘を遠ざけられて空いた心の穴を、彼が郷里の少女2人で埋めようとしているのは明らか。だが、その出発点である娘への感情自体が純粋ではない。彼の娘への思いは、親としての愛情と性的欲情が融合したものだが、その融合でもって愛情&欲情が、不純なりに純粋に完結していたのではない。彼には大人の妻がいた。また彼は、ロリコンが自分の趣味嗜好であるだけでなく、少女ヌード写真をバイトにもしていた。さらに、その関連で少女と関係を持った際には、母とまで関係していた。彼は、ロリコンという不純に対し純粋にのめり込んだのではなく、不純であることにおいてすら不純だったのだ。なんといい加減なことか。
ゆえに、女子小学生たちの自殺を止めようとする幕切れも、どことなく信頼できなさが漂う。クリスマス・プレゼントをあげようとする彼は父親きどりだが、少女2人を“自宅に誘う”つもりであることには、性的な火照りも伴っているのではないか。また、彼の根無し草加減からすると、少女たちの自殺衝動に本人までが巻き込まれてネット心中(といっても3人とも同一の画面で見たのだが)仲間になっても不思議ではない。どうにも微妙な余韻を残すフィナーレであり、ここに独特のリアリティ、“今”らしさがとらえられている。
この小説は東京の前半、郷里の後半の構成になっている。前半は、彼が子どもたちにしたことを非難する女友だちの説教で終る。その女友だちは、国際情勢の渦中で子どもたちが悲惨な目にあっていることを熱く語るタイプに描かれている。だが、ほとんどが具体的な姓名を与えられている登場人物たちのなかで、新聞やテレビ、ネットの情報をもとに国際情勢を語る彼女ともう一人の男は、I、Yとイニシャルにされている。遊び好きの人物と書かれているにしても、彼女は彼女なりに真摯に語っている。なのに、残念ながら彼女は、一般論の国の女王様以上になりえない。だから、嫌味にもわざわざイニシャルで記され顔を匿名化される。
彼女よりはむしろ、後半でロリコンの「わたし」が少女たちを説諭したいと思うことのほうが、個人のリアリティを伝えている。それは、どこか現実感を欠いた“今”的な“らしさ”を表している。
このろくでなし男の説諭願望は、村上龍の『ラブ&ポップISBN:4877285490。同作において、援助交際しようとする女子高生を説教するため終盤に登場したのは、良識ある大人ではなかった。スタンガンなどを使う若い説教強盗だった。彼=キャプテンEOは、自分のぬいぐるみにやさしくしてくれたヒロインに、説教しただけで危害は加えなかった(庵野秀明の映画版ASIN:B00005F5TM演じた)。この展開は、村上龍が大人の説教の無効を意識してのものではあったが、結局、キャプテンEOが一般論以上のことを語れていない光景に不満が残った。
それに対し、ジンジャーマンのぬいぐるみを相棒にしているのが、『グランド・フィナーレ』の「わたし」だ。彼は昔、実の娘にインコを贈ったのに逃げられてしまったことがある。そのインコの代わりにジンジャーマンを贈ったのだが、離婚後の「わたし」は突き返されたそのぬいぐるみを大切にしている。そんな「わたし」には、阿部和重キャプテンEOを自分の作品世界に転生させたかのごとき質感がある。
グランド・フィナーレ』、『ラブ&ポップ』において、説諭して回避されるべきことがらは、いずれも時事的な風俗現象であるものの、ネット心中と援交とで内容は異なる。登場人物それぞれの性格づけも違う。しかし、村上龍がヒロインの視点からキャプテンEOを書くことで失敗した“リアリティ”の捕捉を、阿部和重は「わたし」の一人称の進行によってやり直した印象がある。それこそが先に述べた、不純混じりの人物が説諭しようとした時に帯びる、ある種の個人の“リアリティ”だ。それが可能性と呼べるものなのか、ただのどんづまりかは定かではないけれど……。
(ここで話題にしているのは、キャプテンEO、「わたし」の少女に対する説得力ではなく、彼が説諭したがっていることの読者に対する説得力。その点、阿部は、説諭の光景自体は書かないことで、キャプテンEOの登場/退場にあった唐突さ、非リアリティ感を回避できたともいえる)

  • 11日夜の献立
    • 塩鮭
    • 白菜、玉ねぎ、にんじんのスープ(中華だし。そばやでは、天ぷらそばのそばなし状態=つゆに天ぷらだけ浮かべたものを“天ぬき”と呼ぶが、このスープはタンメンの“野菜ぬき”って感じの味)
    • 小松菜の中華風おひたし(油、塩を加えた熱湯で小松菜をゆで、水気を切る。豆板醤、刻みにんにく、ゴマ油を熱し、小松菜にからめる)
    • 白米1:玄米1のごはん
  • 昨夜の献立
  • 今夜の献立
    • クリームシチュー(鶏肉、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、白菜、えりんぎ。ホワイトソースを作る自信はなかったので、バターと小麦を練ったブールマニエ、生クリーム、牛乳で。欧風スープのもとを切らしていたが、どうせ鶏肉なので鶏がらベースの中華だしを使用。はじめて作ったにしてはよかったのではないか。イメージしていたよりもとろみが少なかったのが不満だが、明日につながる出来になりました)
    • フランスパン

透明な貴婦人の謎―本格短編ベスト・セレクション (講談社文庫)

  • 僕の文章の再録
    • 「POSシステム上に出現した『J』」 → 『透明な貴婦人の謎』(講談社文庫)

上記は、講談社ノベルスで出ていた本格ミステリ作家クラブ編のアンソロジー本格ミステリ01』が2分冊で文庫化されたうちの1冊。泡坂妻夫鯨統一郎、柴田よしき、西澤保彦法月綸太郎はやみねかおる松尾由美の短編を収録。僕の評論は、POSシステム的なものが「世界視線」を代行していることに触れつつ清涼院流水などを語ったもので(もともとは「小説トリッパー」2000夏号掲載)、大筋は変わらないがノベルス時の原稿を若干修正した。
2分冊のもう1冊は、すでに出ている『紅い悪夢の夏』ISBN:4062749416。こちらには有栖川有栖太田忠司加納朋子北森鴻柄刀一三雲岳斗、小森健太郎、鷹城宏の短編・評論を収録。