ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

阿部和重『プラスティック・ソウル』

プラスティック・ソウル
以前、商業ベースではない小説を読んでいて印象に残ったことがある。基本的には、30代後半のヒロインを視点人物として物語が進むのだが、彼女は自分の年齢をやたら気にしている。やれ、もうオバさんだから、とか、肌にはりがなくなった、などと心のなかでつぶやく。ところが、彼女を視点とする章の途中で、一箇所だけ唐突に、同僚の男へと視点が移る。その時だけ、読者は彼の心のなかを覗けるわけだ。同僚はヒロインを見てこう思う。
「なかなかのセクシー・ボディだ」
そして、なにごともなかったのごとく、あっという間に視点はヒロインに戻る……。
なんじゃ、そりゃ。彼女が実は「セクシー・ボディ」なのだと読者にお知らせするためだけに、わざわざ視点を移動したんかいっ。ヒロインが自分を「セクシー・ボディ」だと主張するのは不自然な気がするけれど、同僚の男に「セクシー・ボディ」だと説明させれば自然だろう――と書き手は考えたのかもしんない。でも、視点をそこだけ移動させる不自然さには気が回らなかったのだね。惜しいっ。
その書きぶりは健気だな、と感じたものの、やっぱり、ちょっと笑ってしまった。


阿部和重の『プラスティック・ソウル』は、巻末付録の福永信による評論「『プラスティック・ソウル』リサイクル」で詳細に語られる通り、視点/人称に関する仕掛けが読みどころとなっている。
主人公アシダの三人称
“私”=アシダの一人称
“わたし”=アシダの恋人ヤマモトフジコの一人称
――以上、3つの主語を行ったり来たりするのだ。
阿部和重は『ニッポニアニッポン』以降、作者が登場人物の行為をわざと大げさに語りつつ、作者が登場人物にツッコミを入れるような、彼流のエンタメ的書法を定番化する。そこでは、登場人物の視点と作者の視点の乖離に伴う笑いが、“芸”となっている。それに対し、『プラスティック・ソウル』における視点のズレは、ストーリーにエンタメ的盛り上がりを用意していないせいもあり、“実験”のニュアンスが強く出ている。
で、“実験”でも“芸”でもなく、視点を不用意に移動させちゃうとああいうことになるんだよねーと、前記「セクシー・ボディ」を思い出した次第。
『プラスティック・ソウル』は、視点の不可解な移動といい、存在しない作家のゴーストライターとして4人が共作を依頼され、うち1人が失踪する設定といい、そのメタ性が“新本格”ゴコロを微妙にそそるところがある。ただし、それ以上事件らしい事件は起きず、謎の解決もないけれど(って、つまり本格ミステリじゃないんだけどね)。
というわけで、阿部和重×法月綸太郎×東浩紀鼎談(『阿部和重対談集』ISBN:4062111853)を興味深く読んだ人などには、一応薦めておきます。


ところで、『プラスティック・ソウル』は「批評空間」の休刊(第Ⅱ期)まで連載されたという。そして、現代思想誌に載った実験的な小説といえば、かつて「エピステーメー」終刊号に蓮實重彦が『陥没地帯』ISBN:4309404367思い出す――てなことは、きっと、阿部和重の視野に入ってただろうね。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050427#p1

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