べつに、荒んだ気分なわけじゃないけれど、ズッタズタな感じが聞きたくて、これをかけている。プツプツ切断された音が、なんだか気持ちいい。
で、思い出したのが、「ユリイカ」1月号「特集*マンガ批評の最前線」ISBN:4791701429。そこでは、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』ISBN:4757141297、伊藤、夏目房之介、東浩紀が「『キャラ/キャラクター』概念の可能性」を話し合っていた。そこで東は、テクノやヒップホップに関し「あの音像はキャラが立っている」という言い方があると述べている。
一方、伊藤の「キャラ」概念が図像を前提に考えられていたのに対し、東は「キャラ絵」抜きでライトノベル的に成立した清涼院流水を例にとり、「キャラ」の本質は図像ではないと反論している。
ならば、音楽において「キャラ」が立っている場合、その「キャラ」の本質が音でないということが考えられるだろうか? ――と、ふと連想したのだ。
〜Prefuse73の本来の持ち味というべき巧みなエディット/カットアップ、ビーツ・プログラミングと繊細なメロディーが交差する1枚に。
これは《セキュリティ・スクリーニング》帯の宣伝文句の一部。このなかで「繊細なメロディー」が、いわゆる「キャラ」の立った音についての描写だとした時、素直に考えれば、聞こえてくる音色やフレーズに人は「キャラ」感を覚えていると見なせる。
しかし、音楽にはリズムって要素もある。また、カットアップを観察するならば、音色自体よりも音の切断面、あるいはエディットされた音と音との接着面といった限りなく薄い(というか音として存在しない)“面”にこそカッコよさが宿るといえるかもしれない。
ということは、音楽の「キャラ」立ちの本質は物理的な音自体に依存しない、なんてことも言えるかもしれない。
伊藤のマンガ評論では、「キャラ/キャラクター」概念と同時に「フレームの不確定性」も重要な概念となっていた。では、音楽におけるミックスやエディットをマンガのコマわりと比較したらどうなる……。
――いや、ほんの思いつきだけの屁理屈遊戯ですけど(笑)。でも、アナロジーをさらに進めていけば、もう少し語れそうな気はするなぁ。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20051227#p1)
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20060322#p1)