ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

新城カズマ『ライトノベル「超」入門』

ライトノベル「超」入門 [ソフトバンク新書]
日本国内マーケットでの軽やかさを意識し、試行錯誤した結果、「ライトノベル」という名前と内容に至った。/ライトノベルは“ジャンルを使いこなしている”。/ライトノベルは「連載が物語ごとに分冊されている月刊誌」に近い。――などと、著者はいう。
そして、

キャラクターを素早く伝える方法としてイラスト等を意識し、キャラクターを把握してもらうことに特化してきた、二十世紀末〜二十一世紀における小説の一手法

ライトノベルを定義する。
実作者としての裏づけをもとに、スパッ、スパッと表現していく様子は小気味いい。
また、おたく的なものの見方を「邪推する権利」と呼び、「束縛/従属/偏愛」という彼らの見立ての嗜好が、フランス革命の「自由/平等/博愛」の裏返しだと指摘するあたりも楽しい。
けれど、本全体としては個人的見解よりも“入門書”の性格が勝っており、意外に新書らしい。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20041215#p2


面白かったのは、ラノベ市場に飽和がみられる今、「悩める少年」、「女の子と出会って……」の「セカイ系」が行き着く先は、ジャンル・フィクションのアイテムや設定をあまり使わない「ふつーの良質な青春小説」なのではないかと、新城が語る点。
「児童小説と一般小説の間に生まれた隙間を埋めた」のがライトノベルだったはずなのに、今では、一般小説とライトノベルの間に隙間ができつつある。――新城は現状をそう分析したうえで、“隙間”を埋めようと生まれる新たな「ふつーの良質な青春小説」を「ゼロジャンル小説」とネーミングする。
一方、2004年のラノベ解説本ブーム以前から、文芸誌的な領域でライトノベルを論ずる動きはすでにあった。大塚英志を筆頭に、東浩紀斎藤環などが小説誌(「文学界」「新潮」「群像」「小説トリッパー」など)、詩と批評の雑誌(ってつまり「ユリイカ」)などに、そっち方面の論考を載せていた。(ラノベじゃない旧来の)文芸誌の側は00年代に入ってから、「一般小説とライトノベルの間」に新たな小説の鉱脈があるかもしれないと、予感/願望を漂わせ始めた。
そして、ラノベ論壇の一人、笠井潔は「ミステリマガジン」2003年5月号で「『ジャンルX』という提案」をしたのだった(連載「ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?」第61回)。
笠井の提案は、コミック、アニメ、ゲーム、そしてライトノベルなどからなる新興表現領域を仮に「ジャンルX」と呼ぶこと。

教養文化やハイカルチャーにたいする「非」や「反」ではない点で、「ジャンルX」は大衆文化やサブカルチャーに還元されえない。

と記した笠井は2003年のこの時点で、「X」なる文字にとらえどころのなさ、潜在的可能性の意味をこめていただろう。以後、彼は「セカイ系」作品を積極的に分析していくことになる。
(笠井)「ジャンルX」から「セカイ系」へ。
(新城)「セカイ系」から「ゼロジャンル小説」へ。
2人のアングルの交差は、僕には興味深い(新城が、笠井の用語を意識してネーミングしたとは思わないが)。「X」と「ゼロ」。ある領域が膨張するイメージとスリム化するイメージ。2つの語のニアミスをネタに、新城のいう一般小説とラノベの“隙間”の揺れを読み込むことも可能かもしれない。

  • 11日夜の献立
    • かつおのたたき(みそ、リンゴ酢、粗糖、ねりがらし)
    • うどん(めんつゆ、長ネギ)
    • 小松菜とくるみの炒めもの(ゴマ油、しょうゆ)
    • 雑酒&チューハイ