今さら多くを語るまい。ロックの本質を鋭く抉り出した(笑)快作である。
オシャレ音楽好きの不器用で朴訥な地方出身童貞青年が、素のままでは立ち居振る舞いがうまくいかない。大学入学時に上京し、すでに卒業しているのだから4年以上たつというのに、都会的な人間関係のリズムになじめていない。
ところが、彼はデスメタル・バンドのキャラになると、抑圧されていた性欲や暴力性が一気に必要以上に解放されてしまう。そういう話。
以前、僕はある雑誌で『NANA』について、昔ながらの上京物語の現代的展開として語ったことがある(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050530#p1)。
70年代に松本隆が作詞した〈木綿のハンカチーフ〉では、都会に出て変わっていく彼と、地元に残った(残らざるをえなかった?)彼女の距離が、どんどん離れていく哀しさが歌われていた。それに対し『NANA』は(というかナナでなくハチについてだけど)、彼が都会に出たら、彼女も上京する。いったん出てしまえば、たとえ彼と離れても、彼女はその後も普通に都会に暮らし続ける。――そんな今日的な物語としてあった。
一方、『デトロイト・メタル・シティ』では、都会に出て、「レイプ」だ「殺害」だと、どんどんデスメタルのキャラに染まっていく自分のことを、主人公の青年が母の顔を思い浮かべつつ悔いている。〔変わっていく僕を許して〕というわけだ。この古風な不器用さが、笑いのポイントになっている。
そして彼は里帰りした際、デスメタルにかぶれて家の畑仕事を手伝わない弟に対し、悪魔的な「クラウザーII世」のキャラになりきり、威圧しつつ説教するのだ。まるで、鬼の面をかぶって「泣く子はいねがー、怠け嫁怠け婿いねがー」と、のしのし歩くなまはげのようだ。
つまり、村から出て、都会という異界に暮らし始めた主人公は、鬼のごとき、悪魔のような異形のものになって生きるほかなかったのである。そのように考えると、『デトロイト・メタル・シティ』は、日本的な村落共同体の内部と外部の関係をめぐる優れた民俗学的考察の反映であるようにも思われ……(以下、戯言割愛。――というか、たんにこれ以上ホラ話を思いつかなかっただけですが)。
- 最近自分が書いたもの
- 「ステージ上のファンタジーこそ本質 キッス・エンターテインメント論」 → 『THE DIG Special Edition 完全攻略 ウドー・ミュージック・フェスティヴァル2006』(シンコーミュージック・エンタテイメント)ISBN:4401630343
- 3日夜の献立
- 4日夜の献立
- 5日夜の献立
- 残りもののトマトスープにツナ突っ込んで、スパにぶっかけ(一人の夜は、食事が投げやり)