ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

「新潮」8月号

(小説系雑誌つまみ食い 1)

新潮 2006年 08月号 [雑誌]

細野晴臣中沢新一「これからはじまる音楽のために」

「YMO」を「イモ」と読んだという中沢発言といい、マーティン・デニーはっぴいえんどへの言及のしかたといい、まるで80年代の対談の再録を読んでいるみたい。「エレクトロニカ」なんて用語さえ出てこなければ、最近の収録だと気づかないかも。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20060403#p1

浦山隆行「文芸誌の合併の件」

同じ月に出た文芸各誌の抜粋ベスト版みたいなもの(つまり合併)を出せば、もう少し売れるんじゃない? という伝統的冗談にもとづくコラム。

雑誌名はいちおう『文学2.0(仮)』ということで。

――今の時期ならではのオチです。

蓮實重彦「『赤』の擁護――フィクション論序説」

今秋に刊行される同題の本の一部だそうな。
ここでは、ジャック・ラカンの「『盗まれた手紙』についてのゼミナール」を論じている。ラカンはポーの同短編について作中で二回手紙が盗まれることに注目し、一度目を「原場面」、二度目を「反復」ととらえ分析する。それに対し蓮實は、ポーがこの短編の構造をいかに決定したかを推理したうえ、ラカンに反論する。
ポーはデュパンの推理の完璧さを印象づけるためにまず第二の盗みを構想し、それを際立たせようと第一の盗みを考えた。したがって作品構造のうえでは、むしろ二度目の盗みのほうが「原場面」なのである。――これが、蓮實によるラカン読解の批判。
以上のように紹介すると、謎の解決から逆算されて小説の構造が決定されるミステリの性格に、蓮實が理解を示しているかのごとく思われるかもしれない。でも、当然、違う。
ミステリは最後には犯人がわかる、ストリップは最後には性器が披露される――そんなわかりきった“物語”はおたんこなすだ、イモだと昔からいってたのが蓮實である。彼を“ハスミンのボンジュール重彦”と呼んだのは、岡崎京子だったか。
「盗まれた手紙」のある部分の描かれかたに関し、ラカンが「赤」から「黒」に変わったと、まるで探偵みたいに特定しているのとは反対に、蓮實はポー作品において「赤」と「黒」は常に同居していたと指摘し、どちらかの色彩に決定しない態度をとる。ミステリの謎解きのような評論の形は遠ざける……。昔は、こういうのを“宙吊り”の“戦略”とか呼んでましたっけ。
細野+中沢対談と並んで、とっても80年代フレーバー漂う評論であります。