ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

「批評のこと。」のこと

(“評論”レヴュー/“レヴュー”評論 0)

抱えている仕事の多さと身内の諸事情のため、身動きがとれない。少なくとも月内はもう、この場で長い文章は書けないと思う。自分が感じたポイントだけ今日走り書きして、いったん終わります。あしからず。


1.「評論は、小説の前には立たない」(有栖川有栖)、「小説のことは小説家にしかわからない」(高橋源一郎)――など一連の問題
千野帽子http://d.hatena.ne.jp/noririn414/20080121


2.楽器を演奏しないで音楽を論じるのはどんなもんか――の問題
田中雄二http://d.hatena.ne.jp/snakefinger/20071224/p1


3.再生紙偽装問題


以上3つは、文芸評論家、音楽ライター、業界紙記者(←ただし、昔は専業だったが今は契約で少々やっている程度)という、自分の3つの立場にそれぞれかかわる問題であり、互いに同形といえる要素を含んでいる。


このなかで、再生紙偽装問題には説明が必要だろう。紙を再生することが、必ずしも環境に優しいわけではない。リサイクルで生じる環境負荷もコスト上昇もある。そんなことは、10年以上前から紙業界では当たり前だったし、その周辺で読まれている専門紙・誌では日常的に書かれていた。
しかし、一般マスコミや消費者の間ではリサイクル至上主義が優勢だったため、偽装問題が発覚した今頃になって、再生紙による環境負荷の面が、ようやく注目されるようになったということ。
(とはいえ、再生紙という“無理”について多少理解していた自分も、配合率の偽装についてはわからず、メーカー発表のままさんざん記事を書いた。歯噛みする思いだ)


↑を踏まえれば、1、2、3の問題が、制作現場の言葉と、消費者、あるいは批評・ジャーナリズムの言葉が乖離している点で、共通していることがわかる。


ここで、どの言葉(や認識)が正しいかということは、最優先の問題ではない。確かに、それぞれの言葉の正しさが問われねばならない面は、大いにある。しかし、それ以上に、全体の見通しをよくするため、それらの言葉をいかに配置するかという、編集的な視点のほうが重要ではないか。
制作現場の専門用語を一般消費者がそのまま使えるなんてことはありえないし、消費者の言葉レベルで制作現場の細部を語りつくせるわけもない。制作現場で見えること、消費段階で見えること、その中間あるいは俯瞰に立とうとする批評やジャーナリズムで見えること、各視点でそれぞれの有効性があるだろうし、互いをどう架橋していくかということだ。
自分は、この架橋を意識して、文筆や編集的行為にあたりたいと考えている。


千野帽子は編集センスのある人だし、田中雄二は編集者そのものだから、たぶん、そこらへん留意したうえで書いているのだろう。
だが、1、2を読んで、あれかこれか、みたいな思考にばかり走り出す人がどうせいるだろうから、野暮を承知で書いてみた。

文藝ガーリッシュ 素敵な本に選ばれたくて。

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電子音楽in JAPAN

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(ただ、一般人が再生紙を製造することはまずないのに対し、文章を書いたり、楽器を演奏する側に回るのは−−質を問わなければ−−容易なので、1、2は問題が複雑になる。
ちなみに自分は、ピアノはバイエルを卒業できず、シンセをちょっといじった程度。大好きなバンド−−例えば、クイーンやキング・クリムゾン、ジャパン、筋肉少女帯など−−の楽譜を見て、自分で適当につないだメドレーを打ち込んだりしていた。手弾きで演奏できるのは、せいぜいゲイリー・ニューマンヒカシューのレベル。もっと上手くなりたい)

  • 22日夜の献立
    • 豚肉の炒め(茶油、にんにく、しょうが、豆板醤、XO醤オイスターソース、しょうゆ、こしょう。玉ねぎ)
    • あじの南蛮漬け
    • 豆腐ステーキ
    • わかめと長ねぎの味噌汁
    • 玄米ごはん