(「ローレゾリューション論(仮)」のための覚書 1)
『CONTENT’S FUTURE』と『わたしたち消費』
CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ (NT2X)
- 作者: 小寺信良,津田大介
- 出版社/メーカー: 翔泳社
- 発売日: 2007/08/02
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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わたしたち消費―カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス (幻冬舎新書)
- 作者: 鈴木謙介,電通消費者研究センター
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2007/11/01
- メディア: 新書
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『CONTENT’S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイテイビティ』は、いろいろと刺激される対話集だった。そのなかでも興味深く思ったのは、小寺信良の次の発言である。
YouTubeも日本語サイトができたから、恐らく日本でも一般的なインフラになるような気がするんですよね。そこに載ってるローレゾリューションで4対3という画角のコンテンツが、ネットの動画のデファクトスタンダードになるんじゃないですか。ブラウザを立ち上げると、デフォルトのポータルがYouTubeだったりとか(笑)。
そこで観られる動画コンテンツと、ハイビジョンのテレビで観る動画コンテンツって、内容は一緒かもしれないけど、クオリティが違う。そこをどう捉えるのかに興味ありますね。
この発言を受けて津田大介は、YouTube登場後のアメリカで日本のアニメDVDが売れなくなったという話に触れつつ、次のように語っていた。
これが日本だったら「320×240ピクセルの粗い画面じゃなくて、画質の良いパッケージを提供することで、YouTubeとは別に買ってくれるんじゃないですか。ハルヒみたいな事例もあるわけだし」って言えるんだけど、アメリカ人はその辺どうなんだろうなぁ。
ここでは、今の日本において、ある画像作品をめぐり、ハイレゾリューション(高解像度)を望む層と、ローレゾリューション(低解像度)で十分だという層で、需要の分化が起きていることが述べられている。
それでは、なぜローレゾリューションでもかまわないのかと考えると、彼らが望んでいるのが「ネタ的コミュニケーション」だから、という回答を思いつく。この用語について、鈴木謙介は「ネタ的コミュニケーションとは、すべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式」(『暴走するインターネット』)と説明していた。それは、コミュニケーションすること自体が、即座にネタとなる状況を指す言葉でもある。また、鈴木が電通消費者研究センターと共著で出した『わたしたち消費 カーニヴァル化する社会の巨大ビジネス』のなかで論じていた「わたしたち消費」は、「ネタ的コミュニケーション」が生んだ市場だと解説されていた。
そして、画像の解像度を高め作品をきめ細かく鑑賞することよりも、あるネタをきっかけにコメントを出しあい、コミュニケーションを楽しむことが優先されるニコニコ動画など、ローレゾリューションで満足できる需要の典型なのである。
ニコニコ動画としての清涼院流水
(小説系雑誌つまみ食い 28――「メフィスト」1月号)
限界小説研究会の蔓葉信博は、「メフィスト」の連載「ミステリに棲む悪魔――メフィスト賞という「想像力」」の第2回「アイデア・ハザード――清涼院流水・蘇部健一論」で、こう述べている。
当時、大学生だった自分を思い返してみると、『コズミック』には読書仲間のコミュニケーションツールとしての役目があったのではないか。
個人的な経験としての読書と同時に、コミュニケーションの円滑な流通素材としての読書も重視されるのである。求められているのは高度な論理性ではなく、円滑な流通性なのだ。
このことを論じる過程で、蔓葉は東浩紀『情報環境論集』に言及しているが(ちなみに東は「SIGHT」最新号asin:B000YSANO6の「東浩紀ジャーナル」第7回で「コミュニケーション消費の陥穽」という文章を書いている)、むしろ鈴木謙介『わたしたち消費』に近いテーマ設定といえる。つまり、清涼院流水『コズミック』は、ネタ的コミュニケーションを大いに誘発する小説だったということだ。
しかし、『コズミック』は刊行当時、生真面目な本格ミステリ・マニアから厳しい批判にさらされたのでもあった。今から振り返れば、その現象をハイレゾリューションを求める層とローレゾリューションでかまわない層の軋轢だったととらえることも可能である。本格ミステリ・マニアは精緻な論理性というハイレゾリューションを要求するが、コミュニケーションのネタとして名探偵や密室というガジェットさえにぎやかに描かれていればいいというローレゾリューションの需要もある。「円滑な流通性」を持っているのだから、ローレゾリューションでもかまわないという層だ。それら2つの需要層が摩擦を起こしたのが、『コズミック』騒動だった。
あるいは、ハイとローというと、そこで正否の価値判断をしているように受けとられるかもしれない。だが、必ずしもそうではない。例えば、ある範囲の風景を写真に撮る場合、見えるものすべてにピントを合わせることはできない。鮮明に写る部分もあれば、ぼやける部分もある。どこが鮮明であって欲しいかは、人によって異なる。
僕がここで語っているのは、そのような需要の差についてであり、『コズミック』は本格マニアの判断としてローレゾリューションであっても、キャラや世界の設定の面ではハイレゾリューションだったともいいうるのだから。
今後、自分はまたハイレゾリューション、ローレゾリューションと書くことがあると思うが、それは以上のような意味合いにおいてである。
付記:最初、上記の文章に関し、冒頭で戯れに“「ロー・イメージ論(仮)」のための覚書 1”と記していた。これは、80年代の高度情報化を論じた吉本隆明『ハイ・イメージ論』を意識してのこと。同書では解像度の上昇がテーマになっていたともいえるが、今は逆に低解像度について考えたほうがいいのではないか、と思ってそうしたのだった。
しかし、仲俣暁生が2005年に「『ロウ・イメージ論』のためのメモ」を書いていたのを発見。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20051102/p1
というわけで、“「ロー・イメージ論(仮)」”ではなく、“「ローレゾリューション論(仮)」”に変更した。
- 最近自分が書いたもの
- 「サブカルの真犯人」(橘川幸夫・村松恒平『微力の力 おバカな21世紀、精神のサバイバル』asin:4757737564の書評) → 「ROCKIN’ON JAPAN」(2月号)