ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

さらに『クリアネス』、辻仁成

(『ピアニシモ』『ピアニシモ・ピアニシモ』の趣向に触れています)

『ピアニシモ』

ピアニシモ (集英社文庫)
『クリアネス』の(特に映画版で強調されていた)「レオ−透明人間」という分身関係に近い図式は、辻仁成のデビュー作『ピアニシモ』(90年)にも見出せる。
いじめが待っている教室と崩壊寸前の家庭を往復する中学生、氏家透には、彼にしか見えない、ヒカルという相棒がいた。「透−ヒカル」というネーミングに表れている通り、この分身関係にはピュアな「透明」性のイメージが付与されている。
教室でも家でも居心地の悪い透(とヒカル)は、性的かつ孤独な呼びかけに満ちた伝言ダイヤルを聞くことを楽しみにしていた。

僕らも半分ひやかしだったけど、残り半分は本気だった。いつか送られてくるだろう、僕に似た誰かからのSOSを、じっと待っていた。

そして透は、父親に犯されて妊娠したという女子高生、サキと話すようになる。つまり、彼は、ヒカルとはべつの、「僕に似た誰か」を見つけたわけだ。
しかし、透とサキは“声”だけの関係が続き、彼が会いたいと希望すると、しまいに彼女はこんな言葉を投げつけてきた。

演技よ。芝居なのよ。どうしてわからないの? ごっこなんだよ。ごっこ。わかる? 遊びじゃない。

ネタにマジレスだったと思い知らされ、サキとの関係の可能性を失った透は、分身であるヒカルと決別し、小説は終わる。
メディアを介して「自他」のズレ/シンクロを物語った点で『ピアニシモ』は、『東京少女』、『東京少年』、『クリアネス』の先行作品ともいえる内容を持っている。とはいえ、『クリアネス』において物語の因果関係を説明する“落としどころ”にされた“親子関係”をめぐり、『ピアニシモ』では、使いやすいありがちな物語にすぎない――というフェイクな側面も描かれている。その意味で、『クリアネス』などよりは、批評的、文学的といえるかもしれない。
しかし、『ピアニシモ』が発表された90年は、ちょうど新本格ミステリのムーヴメントが起きていた時期である。新本格では、叙述トリックなどによって、それまで物語られてきた世界がラストでひっくり返され、登場人物の本当の姿、本当の関係があらわれるという青春小説がたびたび書かれていた。その種の作品に比べると『ピアニシモ』は、どんでん返しのためにまめに伏線を引いているわけでもなく、“夢オチ”ならぬ“嘘オチ”であり、弛緩した印象は否めない。同作における親子関係の描きかたなども、『クリアネス』的な水準と比較すれば批評的だが、文学としてみれば保守的な部類だし。
仲俣暁生は、『「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか』asin:4862380425で、青春小説について次のような独自な定義を与えていた。

「青春小説」とは「記述者=犯人=被害者=依頼人=探偵」であるような、ごく特殊な形式を持った「探偵小説」

「青春小説」とは、基本的には探偵小説と同一の枠組みをもっていながら、不安定で自惚れに満ちた叙法によって語られる、不正確極まりない出来損ないの探偵小説

僕は、この「出来損ないの探偵小説」という表現から真っ先に思い浮かべたのが、『ピアニシモ』だった。

『ピアニシモ・ピアニシモ』

ピアニシモ・ピアニシモ
辻仁成は、その『ピアニシモ』の続編を、なぜか昨年になって刊行したのだった(「文学界」2006年11月号〜2007年1月号に連載されたもの)。で、新本格以後の流れが何周かしてゼロ年代の後続作家が育っている今、ケータイ小説の一連のヒットがあった今、『ピアニシモ』の続編がどのように書かれたのか、興味を持って読んだのだが……。
『ピアニシモ・ピアニシモ』は、分身関係を中心にすえた点は『ピアニシモ』と共通だが、前作と直接物語がつながっているわけではない。むしろ、パラレルワールドのようにして書かれているのだ。このためか、「ヒカル」は「ヒカル」のままであるものの、「透」は「トオル」に変更されている。
トオルの家が、ギクシャクしているのは前作と一緒。彼が「いるだけの人」(←もろに透明人間ですな)のハンドルネームでネットに書き込んでいるうち、サキを名のる人物と知り合う展開も同型。一方、トオルの通う中学校では過去に女子生徒が殺されており、その幽霊話が囁かれるなか、やがて次の事件が起きる。
基本的に、『ピアニシモ・ピアニシモ』は『ピアニシモ』の拡大版のように作られており、文章量も多くなっているのだが、比例して弛緩の度あいも大きくなっている。
この小説には、トオルと関係する重要な人物としてシラトという女装生徒が登場する。その一方で、ネットで知り合ったサキは、実はネカマだったという種明かしが前半で行われる。女装者とネカマという似たところのあるキャラクターなのだから、物語の展開においてなんらかの力学が計算されていそうなものだ。ところが、驚いたことに、サキは前半で退場してそのまんま。なんのために出した人物なのか、わからない。
また、学校の殺人を扱っているものの、犯人探しが進むでもなく、幽霊話を中心にホラー化していくわけでもなく、中盤以降は地下にあるもう一つの学校というファンタジー路線に傾斜していき、トオルの考えている世界が問題なのだと独我論的な方向に雪崩れ込んでいく。ミステリ、ホラーなどのエンタメ的道具立てを消化しないまま用いて、散らかしている。また、現実の事件に対するファンタジー部分の描かれかたにしても、村上春樹作品におけるファンタジー(『海辺のカフカ』とか)ほどには象徴化されていない。だから、“夢オチ”かよ――に近い読後感になる。
というわけで、こういうテーマ、こういう設定の学園ものだったら、辻村深月のほうが良質なものを書くんじゃない? というのが結論。




本日はこれから、ひたすら確定申告の計算。今年もまた、ギリギリになってしまった。それが終わったら、ひたすらゲラの校正……。