ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

吉田修一『東京湾景』(と江戸川乱歩「押絵と旅する男」)

東京湾景
仲間由紀恵主演で7月に月9ドラマになるという『東京湾景』を読んだ。なるほど。いかにも恋愛ドラマ的な舞台、設定がはめ込まれている。わざとらしいくらいに。
目次には、「品川埠頭」「お台場から」「天王洲1605」など、ロケ地を指定するみたいな章題が並ぶ。ヒロインは女友だちと渋谷のオーチャードホールに出かけたり、男と銀座の日航ホテルに行ったり。そもそもこの小説は、ケータイの出会い系サイトで知り合った男女が、羽田空港で初めて会うのが第一章だ。TVドラマ的な絵になりやすい場所を、意図して選んでいる。
品川埠頭の倉庫で働く亮介に対し、「涼子」は浜松町のキヨスクに勤めていると話す。この第一章で、読者が亮介と「涼子」を“お似合い”と感じるとすれば、それは二人がともに具体的なモノを動かして働く人として登場するせいだ。荷物を動かす亮介と、狭いスペースで多くの商品や小銭を扱う涼子。倉庫で働く体と、キヨスクで働く体の運動性には、近しさがある――読者は無意識のうちにそう感じる。
しかし、「涼子」は嘘をついていた。彼女=美緒は、実は大手石油会社の広報部で広告制作にかかわっており、具体的なモノではなくイメージを扱っていた。一方、この小説は、仕事で汗まみれになった亮介が、上半身裸になるところから始まる。彼の胸には傷がある設定で、銭湯に行く場面が多く、朝から肉を食いたがる場面もある。だから、彼の肉体性を強調する内容なのだが、そのわりに体の生々しさはあまり伝わってこない。なぜなら、フォークリフトで荷物を積み下ろしするのが亮介の仕事で、モノと彼の間にはワンクッションあるからだ。要するに二人とも、生身でモノをつかんでいるわけではない。むしろ、なにかを直接つかめてはいないという感覚において、二人は共通している。彼らの仕事内容は、その暗示的な表現になっている。
出会い系で始まった二人の関係について、美緒は亮介がただの体であればいい、自分もただの体になりたがっているみたいだと思う。しかし、抱き合いさえすれば互いに本能が納得するような、そんなただの体になれないから、なりたいと願うのである。イメージ商売の広報部の女が体に憧れ、倉庫勤務の肉体系労働者が自分の心持ちに拘泥する――この恋愛小説はそんな皮肉な図式で作られており、亮介と美緒はともに、体と心がアンバランスな人間に描かれている。
彼らは、体、心、体&心のどのレベルでも、現在進行中のこの恋愛らしきものをうまく“実感”できない。この小説は、二人は果たして恋愛を“実感”できるようになるのか?  というスリルで進む。

本当に理由などまったくないのだが、たとえば自分が運んでいるこれら荷物の中身が、実は全て空っぽなのではないだろうかと、何の根拠もないのだが、ふと思ってしまうのだ。

亮介が仕事中にふと思う、この「空っぽ」疑惑が、二人の関係にも見え隠れする。いかにもTVドラマ化に都合よさそうな都内の目立つスポットで流れる時間と、アパートの部屋にひたすらセックスするためにこもっているしけた時間。前者はイメージが、後者は肉体が支配する時間だが、両方ともフィットしきれずに空転していく。

それなのに、まだ誰かを本気で好きになったこともなかったはずなのに、なぜかしら自分は、男が女を愛するということに、女が男を愛するということに、どこか作りものっぽい、陳腐な印象を持っていたのだ。テレビで垂れ流されていた恋愛ドラマを見ても、ぜんぜんピンとこなかった。世間で評判になっている恋愛小説を読んでも、最後まで読み通せなかった。

と美緒は回想するが、それは過去だけでなく現在も続く彼女の感覚だ。だから作者は、いかにもTVの恋愛ドラマ的なスポットで主要人物を動かし、そこで空転する様子を写し取ろうとする。この空転の“実感”=“実感”のなさにこそ、私たちの現在性はあるのだから。
とはいえ、TV誌をみると、月9ドラマ版ではかなり設定が変更されるらしく、原作の持つ“恋愛劇の自己否定”的な要素や、“実感”しきれなさの追究ははずされそうな気配。結局、お台場いいとこ、一度はおいで!! というプロパガンダで終ったりして……。



ところで、『東京湾景』を読んで、おや? と思ったことがある。作中には、亮介と美緒の関係をほとんどそのまま女性誌の連載小説に書いてしまう、青山ほたるという作家が出てくる。彼女の仕事部屋が、浅草寺の真裏に建つ古いマンションの十二階と設定されているのだ。お台場−品川という「平成」的なスポットを中心に展開するこの作品に、浅草という大昔の最先端地域が唐突に登場するのが、どうも気になる。しかも、浅草の十二階と聞けば凌雲閣を連想するし、ひょっとして『東京湾景』は、江戸川乱歩の短編「押絵と旅する男」(昭和4・1929)を下じきにしているのかと推理したくなる。
「十二階」と呼ばれた凌雲閣は、明治28年(1985年)に完成した当時としては非常に高い塔で、浅草の最先端性を象徴する建物だった。「押絵と旅する男」では、その建物から双眼鏡で見下ろしていた男が、レンズの視界に入った女に恋してしまう。ところがその女を探し出してみると生きた人間ではなく、歌舞伎を題材にした押絵の人物だったのだ。恋焦がれすぎた男は、自分の属する現実を捨て、女のいる虚構の中に住むことを選ぶ。その悦びと苦しみ……。蠱惑的な幻想譚である。
一方、『東京湾景』第一章には、亮介と「涼子」=美緒がモノレールで帰る場面がある。その乗車中の窓から亮介の古い木造アパートを見て、彼女はいう。

「だって、自分が今、どんなところにいるか、あんな高い場所から見下ろせるんだよ。それって幸せなことよ」

吉田修一作品における見下ろす視線の重要性は、仲俣暁生らが指摘している。以後の文章は、それらを多少意識している)。
東京湾景』の場合、モノレールからの眺めの延長線上に、美緒が勤務する会社の喫煙ルームからの眺めがある。そのお台場のビルの二十三階からは、東京湾を挟んで対岸にある品川埠頭が見える。そこに亮介の仕事場はあるのだ。そして、高い場所から見下ろせば、どんなところにいるかはわかるかもしれないが、下りていかなければ実感できない――というのが、この小説のテーマの一つだったりする。
そんな見下ろす人である美緒と亮介の関係を、そのまま小説にしてしまう青山ほたるは、二人をさらに見下ろそうとする存在である。しかし、青山の仕事場が十二階で、美緒の勤め先から十一階も低いことから暗示される通り、彼女は見下ろすことに挫折し、作中の小説「東京湾景」は最後には連載中断に陥る。
美緒は〔愛するということに、どこか作りものっぽい、陳腐な印象を持っていたのだ〕が、彼女と亮介の成り行きは、そのまま連載小説になりえた。〔愛するということ〕が現実になっても“実感”できない人間がいる一方で、現実がそのまま小説という虚構になりうる。ここでは、現実感覚の混乱が起きている。高い建物から地上を見下ろす場面は、段差のある複数の現実感覚が並列していることを、場所の違いの形で表している。しかし、「押絵と旅する男」が、自分の恋する虚構=もう一つの現実感に思い切って飛び込んだようには、『東京湾景』の二人はなかなか思い切れない。
お台場の二十三階と品川埠頭。二人がそれぞれ所属する場所(帰属する現実感覚)に立ちながら、ケータイで会話を交わすラスト。亮介は、東京湾に飛び込んでお台場まで泳いでくると宣言する。美緒がその姿を思い浮かべて小説は終るが、彼が実際に飛び込んだかどうかははっきりしない。このラストの、宙吊りの微妙な感覚が、現在っぽい。「押絵と旅する男」のようには自分にフィットする現実感覚を見つけられず、空転に生き続けること。現在、書かれている小説で真に良質なものは、この空転の影響が必ずどこかに刻印されているように思う。
ちなみに、乱歩は次のように書いていた。

頂上には、十人あまりの見物がひとかたまりになって、おっかなそうな顔をして、ボソボソ小声でささやきながら、品川の海の方をながめておりましたが、兄はと見ると、それとは離れた場所に、一人ぼっちで、遠目がねを眼にあてて、しきりと観音様の境内を眺め廻しておりました。

押絵の女に魅せられた兄とは違って、〔品川の海の方〕をながめていた、虚構に殉ずることなどできない普通の人たち。僕は、この普通の人たちの末裔を描いた恋愛小説という風に『東京湾景』を見立て、楽しんだのだった。