ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

山尾美香『きょうも料理』

きょうも料理―お料理番組と主婦 葛藤の歴史
千野帽子に存在を教えられて読んだ本。好著である。
「お料理番組と主婦 葛藤の歴史」と副題にある通り、“家庭料理”にまつわるイメージがどのように形成されてきたのかが、料理本や料理番組などの変遷を振り返りつつ語られている。
修士論文を出発点にした本であるせいか、明治〜大正期に触れた序盤は、学生のレポート風の堅さがある。だが、戦後の記述になると、“料理は愛情”、“手作りは正義、手抜きは悪”などのイデオロギーを押しつけられる主婦としての山尾の本音が増え始め、面白くなる。
この本では、昭和初期まで一汁一菜のおかずしかなかった一般庶民の食卓に、あたかも昔っから語るに値する“家庭の伝統”、“おふくろの味”があったかのごとく、“家庭料理”のイメージが捏造されてきたプロセスが描かれている。旧くからあると思われているが、実は歴史が浅い思い込みにすぎないのだ――とちゃぶ台返しする展開は、『日本近代文学の起源』(柄谷行人)ならぬ“日本家庭料理の起源”といったところか。
“「一般的な国民である誰か」の伝統”を継承するよう要求される主婦の立場について、山尾はこう記す。

 しかし「おふくろの味」とは、努力しても到達できない味なのだ。なぜなら「おふくろの味」とは、作っている人(主婦)が評価できるものではなく、あくまで他者(夫や子ども)が評価するものだからだ。つまり「おふくろの味」は、家族という身近な他者に「伝統」という神話でもって一世代前の「母の味」を絶対評価として発見させ、嫁の味を相対評価することの正当性を与えたのである。

卓見である。
その一方で著者は、“料理は愛情”というイデオロギーから逃れているウンチク系“男の料理”への苛立ちを爆発させる。グルメ・ウンチク系“男の料理”本にみられる――
「食卓へのこだわりこそ、男一匹、命の源泉」(「週刊ポスト」デラックス10 男の料理「美味い惣菜」)
――などという詩的な表現が、実は、乙女のお菓子作りのポエムに似ていると指摘。

 こうしてみると、「男の料理」と称されるものが、結果が問われないプロセス重視型の「○○な俺(アタシ)」という演出にほかならないことがよくわかる。そして、これらはやっぱり家事労働ではなく、趣味とも言い切れない単なる自己満足の「イベント」なのだ。
 しかし、乙女のお菓子作りと違うのは、「○○な俺(アタシ)」という演出が、自己満足で終わる点である。乙女の場合、「○○なアタシ」というのは、他人から評価されなければ完結しない。料理もお菓子も、誰かに食べてもらってナンボであり、それらの料理に「愛情」がこもっていることはすっかり前提になっている。

僕自身は、週の4、5日は同居人の評価を意識しつつ料理しており、“料理は愛情”イデオロギーに抑圧される主婦の側面を持っている。だが、その献立をいちいちネット上に雑記するあたりは、「○○な俺」演出全開ともいえるわけで……。
読んでいて、いろいろ考えさせられる本であります。

? 平野レミ

この本の中で、代表的料理研究家たちが、「教える」、「ハレ」、「ライフスタイル」、「お惣菜」といった指標でマッピングされている。例えば、「お惣菜」と「提案する」傾向が強い人として、栗原はるみ奥薗壽子が位置づけられている。しかし、ただ一人「?」マークをつけられ、マッピング不可能とされた人がいる。平野レミである。爆笑。
平野レミが考案したフライパン「レミパン」は合理的なのに、なぜか彼女自身の喋りや行動は、非合理なまでにハイテンションである。不条理とすらいっていい。平野の包丁の扱いかた、切った素材の鍋への放り込みかたは、豪快というか大雑把だが、奥薗の「ズボラ」みたいなニュアンスはない。奥薗の「ズボラ」は省力化を目指した合理主義であるのに対し、平野の大雑把さは、もう、性格とか本能とか症状(失礼)にしかみえない。

ちなみに平野レミは異次元の人という感じだろうか……。

という山尾美香の感想に、僕も賛同したい。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/20050213#p1
サイタムック 平野レミさんのLOVE is ごはん (saita mook)
ちなみに今夜は、料理については語るだけにして、買い食いですませます……。ここで手抜きに罪悪感を覚えるのが、イデオロギーによる抑圧の証明なのだろうか……。