ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

スタンリー・ドンウッド個展

(小説系雑誌つまみ食い 33――「本が好き!」5月号)

銀座の東京画廊+BTAPで催されているスタンリー・ドンウッド個展「I LOVE THE MODERN WORLD」を、昨日、覗いてきた。
http://www.tokyo-gallery.com/index_j.html
レディオヘッドのアートワークで知られる人だが、個展では、サバービアを描いたエッチングのシリーズに魅かれた。
その、画一化された住宅が並ぶ様子は、まるで墓地のよう。“家=墓”というのは、新興住宅地に対するイメージとしては古典的でありふれている――と、わかってはいるものの、なぜか魅かれてしまう。


自宅に帰ると、光文社のPR誌「本が好き!」最新号が届いていた。
http://www.kobunsha.com/shelf/magazine/current?seriesid=104003
山崎ナオコーラが「この世のすべてが嘘系図」というエッセイを寄せており、次のような一節を記していた。

 生きていた証(あかし)に石を彫り、それを建てて地表を占有し、一点の場所を永遠に残そうとする。そんな人間のブザマな仕草は、まったくもってキュートだ。

ああ、僕がスタンリー・ドンウッドのサバービアのエッチングから受けとったのは、ナオコーラが書くこの感覚ではないか――と思った。
そして、先日、地元のケーブルテレビで見たミニ・ドキュメンタリーを思い出した。それは、浦安の海が埋め立てられ、マンションや住宅地が築かれてきた歴史を追った番組だった。そこでは、同埋立地域に墓地公園ができたことを説明するパートで、ナレーターが「こうして住民にふるさと意識が芽生えたのでした」――という風な意味のことを言ったのだ。
なるほど、墓を作るとは、その地域で死ぬことを決めたというのに近いし、それが“ふるさと意識”なのだな、と理解した。
自分はこれまで、新興住宅地をめぐる“家=墓”イメージに関し、画一化・平均化に対する風刺とばかりとらえてきた。けれど、家を建てる→そこで死ぬことを予感する→つまり、“家=墓”――と考えるなら、そのイメージに人の生活の切なさが感じられるのも当然なのだ。
スタンリー・ドンウッドが描く「ブザマな」サバービアは、「まったくもってキュートだ」。

The Eraser

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