ENDING ENDLESS 雑記帖

文芸・音楽系文筆業=円堂都司昭のブログ

東浩紀「法月綸太郎と恋愛の問題」とオノ・ヨーコ

東『クォンタム・ファミリーズ』を法月が書評

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

東浩紀の第一長編小説『クォンタム・ファミリーズ』が刊行された。同書に関しては法月綸太郎が「波」1月号に書評を寄せており、東はブログでこう反応している(ツイッターにも同趣旨のツイートあり)。

法月さんにしかできない読解であるとともに、僕の『ミステリーズ!』連載の法月綸太郎編への返信にもなっている。こんな批評的な往還ができるとは。小説書いてよかった!
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20091218/1261143462

(2010年1月15日追記:法月の書評はこちら。http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/426203.html
東の「『ミステリーズ!』連載」とは、「セカイから、もっと近くに!――SF/文学論」を、その法月綸太郎編とは同誌30〜32号掲載の第5〜7回「法月綸太郎と恋愛の問題(1)〜(3)」を指す。

そこで東は、法月綸太郎と同名の探偵が活躍するシリーズを家族の観点から読解していた。一方、法月は東の第一長編を「家系」の問題として論じている。また、両者の評論、小説のなかでそれぞれ「父親」が特異な位置にすえられている点でも、ある種の共鳴、応答がうかがわれる。
(付記:法月綸太郎による書評の補足。http://d.hatena.ne.jp/noririn414/20091219#1261223173
「波」1月号の発売日は25日。僕は、その書評を事前に読むことができた)

東による読解

法月綸太郎と恋愛の問題」での東の読解は、ミステリ専門の書評家からはまず出てこないものであり、自分も刺激を受けた。
小説家兼名探偵の法月綸太郎(以下、登場人物は綸太郎、作者は法月と記す)の父は警視であり、シリーズにおいて父子は連係して事件を追うことが多い。東は、綸太郎の母が彼の誕生直後に自殺しており、警視と綸太郎が長らく二人で共同生活しているという基本設定に注目する。

あるいはそれは、父というよりも、むしろ母と息子の共依存の関係を思わせる。綸太郎はしばしば、小説が書けない、事件が解けないと弱音を吐く。警視はそのすがたに顔を顰め、小言を言いながらも、じつは綸太郎の才能に依存している。そしておたがいにその関係に安住している。

ミステリーズ!」31号

この見解をもとに、東は法月警視を「母」とみなす特異でスリリングな読解を展開する(東の議論は、法月のこだわってきた「後期クイーン的問題」が、探偵小説や名探偵の存在根拠をめぐるものであること、根拠不在という問題は現代思想では「父の不在」と形容されることを踏まえてもいる)。
そして、東は、綸太郎−法月警視の“母子密着”状態に割って入るかのごとき「他者」が、『ふたたび赤い悪夢』から登場した久保寺容子だったと指摘する。
(詳しいことは「ミステリーズ!」のバック・ナンバーをどうぞ)

『ふたたび赤い悪夢』〜《ジョンの魂》〜ヨーコ

ふたたび赤い悪夢 (講談社文庫)
『ふたたび赤い悪夢』では探偵として行きづまっていた綸太郎の回復が描かれる。高校時代の友人・容子と再会したことが綸太郎の立ち直りのきっかけとなるのだが、印象的なのは2人のデュエット・シーンである。彼らはジョン・レノンの〈神 God〉を歌うのだ。
僕は以前、今はなくなってしまったe−NOVELSに「ロックで読む法月綸太郎」という作家論を書き、『ふたたび再び赤い悪夢』にジョン・レノンが引用された意味を考察したことがある。
法月は同作で〈神〉の詞の多くを引用していたが、その内容は「××を信じない」と信じないものを列挙したあげく「ビートルズを信じない」と言い切り、「僕は自分を信じるだけだ」と宣言するものだった。この曲は、ビートルズ解散後の初の本格的ソロ・アルバム《ジョンの魂 JOHN LENNON PLASTIC ONO BAND》の核だといえる。ビートルズにおけるスターという立場を否定し、独りの人間としてアイデンティティを主張した。そんな〈神〉の内容は、名探偵という立場を懐疑していた綸太郎が、自己を取り戻す過程と響き合うものだった。――ということを「ロックで読む法月綸太郎」には書いたのだった。
しかし、東の読解を受けて、遅ればせながら〈神〉の引用に関し補足の考察を加えたくなった。
作中では、綸太郎が《ジョンの魂》で〈神〉の次に収録されている最終曲〈母の死 My Mummy’s Dead〉をカセットテープで聞く場面がある。タイトル通りのことが歌われた曲であり、これを聞いた綸太郎は『ふたたび赤い悪夢』で状況に翻弄される少女・美和子の心のうちに思いをはせる。
だが、小説中では触れられていないものの、考えてみれば《ジョンの魂》は、「母さん行かないで 父さん帰ってきて」とジョン・レノンが絶叫する〈母 Mother〉が1曲目だった。これはジョンが伯母に育てられた事実に基づいた私小説的な歌だが、母が死んでおり、(東の論によれば)「父」不在の綸太郎自身とも通じるところがある内容だ。
《ジョンの魂》というアルバムは、私的心情の吐露で全体が作られており、最終的に〈神〉で自分のアイデンティティを宣言した後、〈母の死〉を受け入れる構成になっている。
ここで留意すべきなのは、ジョンは〈神〉において「僕は自分を信じるだけだ」と歌ったすぐ後、「ヨーコと僕をね」と付け加えていること。ヨーコとはもちろん、ビートルズ末期からソロ、死まで(一時離れたことはあるが)のジョンのパートナーであり続けたオノ・ヨーコを指す。彼女はロックではなく現代美術、現代音楽の分野にいた東洋人であり、ジョンにとって異文化に住む他者だった。
また、忘れられている(というか、多くのビートルズ・ファンはなかったことにしている)ようだが、《ジョンの魂》と同時に同じプレイヤーたち、同じジャケットで《ヨーコの心 Yoko Ono Plastic Ono Band》というオノ・ヨーコのソロ・アルバムも制作されたのだった。
ジョンの魂プラスティック・オノ・バンド(ヨーコの心)(紙ジャケット仕様)
ジョン&ヨーコは、(少なくとも彼らのなかでは)対等の他者として出発したのであり、そうすることによって初めて、ジョン・レノンビートルズ離れができたのだった。
それらを踏まえたうえで、東の読解が描きだした久保寺容子という他者の意味を考えれば、『ふたたび赤い悪夢』で《ジョンの魂》が引用されるのは、いかにもふさわしいことのように思える。


とはいえ、最初は他者同士だったはずのジョン&ヨーコも、“母子密着”的な依存関係になっていった。“母”に呑みこまれそうなジョンにいら立つ、というのが一般的なビートルズ・ファンだっただろう。
法月が、『ふたたび赤い悪夢』以後のシリーズ作で結局、綸太郎と容子の恋愛関係を発展させず、彼女を遠ざけていったのはそうした関係の変質を忌避したためだろうと推察する。
(関連雑記http://d.hatena.ne.jp/ending/00000602#p1

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